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旭日支教会長岡本善六辞職に付、山沢為造後会長に御許し願

さあ/\尋ねる事情/\、まあ一度は尋ねにゃなろまい。よう思やんしてみよ。これまで日元講と言うであろう。容易ならん、これよりの理はあろまい。なれど、皆皆心の理が何かの理に成らん。尋ねる事情余儀無く事情であろう。よく聞き分け。皆々辺所でも心を結んで通れば、どんな所どんな所でも皆治まるもの。なれど、一人又一人二人三人事情、何人めん/\事のように思うから、何したんぞいなあ、と言うようになる。世界多くの中にも、こんな理はあろまい。よく聞き分けて改め替え。遠く所遙かな事情でも皆治まりてある。いかな事情も治まりある。元一つの道でありながら、一つの心皆そも/\で通るから、何したんぞいなあと言うようになりたる。又変わる処人の心、心に添え、役員々々とも言う、詰員とも言うであろう。皆心の精神の理を以て、一つ出たる理に心を添うて一条の道を通れば、これからと言う。さあ尋ねる事情は許そ/\。さあ願通り/\の理に許そ/\。さあ許し置こう。
【説明】
(1) 旭日大教会初代会長岡本善六氏が、教会新築落成報告祭後、事情のために信者集まらず、その打撃のために軽い中風をも併発した。この初代会長のおたすけに運んだ山沢為造氏が、整理のために会長になった時のおさしづ。 (2~3)日元講というのは容易ならん理であり、これほどの理はない。それなのに、他人事のように思い、思い思いに通るから、働き甲斐のないことになる。へんぴな所でさえ、心を結んで通れば治まるのに。 (4) 今後は十分、皆が新会長に心を寄せて一条の道を通れば、洋々たる前途が開けてくる。 なお、このあと事情が解決し、経堂新築のための移転のおさしづにも「何事するにも運ぶにも、何人一つの理結んでくれ」(明40.2.21)と再び、”一手一つ”についてのお言葉をいただいている。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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