おさしず検索


刻限

さあ/\/\毎晩々々の事にどうもならん。今日の日大抵の事知らしたで。どうも半端、心にたんのう出来ん。どういう事いかん。今日まで何にも言わずして越して来た。どう語るも言葉、同じ言葉やで。さあ/\もう道はどうなりこうなり治まる/\。一つ/\/\これ一つもう一段の処、これ一つ一寸又事情、今日までは、これさえ了うたらなあ、待って居る待って居る。今日の祭了うてもなあ、祭了うても、又かいな。早く踏み留めてくれ/\。もう一日二日、余程大事な処である程に/\。どちらからでも大事やで。

内々の処でありますか、と申し上げ
さあ/\内々の処判然と言えば判然、不足と言えば不足。どうもならん。ウヽヽヽ。

明日は運び方きっと付けますから御許し下され度し、と申し上げ
さあ/\内々の事情という、もう内々の事情何も難し事無いで。どうもならん/\どうもならん。難しい事無理にどうせいと言うたて成ろうまい。成らん事無理に言うたとて成ろうまい。

さあ/\まあそれはじっとして、第一待って/\待ち焦がれて居る。一日の日どうでも元一つ第一待つ。遁るに遁れられん。遁れられんというは、これどうもならん。


古き縁談の事情おさしづ(まさゑの古き縁談の事)
幾度の間/\事情と言う。そりゃ一人の事情である/\。一人の事情は成ってもその向き、成らいでもその向き。十分得心して十分満足さして通れば、いつ/\までめん/\の事になる。それ/\の事なれども、これどうもならん。可哀相なものや、暗がりの道/\何度も通らにゃならん。これが可哀わい/\。親と成り子と成るは、いんねん事情から成りたもの。親を孝行せず、親という理忘れ、親に不孝すれば、今度の世は何になるとも分かり難ない/\。この話理伝えて置こう。

よう/\一時の処、もう遠き所ならばどうなりとして一言なりというは、真の心である。内々の処十分言葉を聞き、順序なか/\の中に一つこの心と言う。よう皆々察してみてやってくれ。親が満足出来るか出来んか、これよう一つ聞き分けてやってくれ。もうこれ十日以上身の障り、どうでもならん。もう明日よいか/\、もうなあ皆々待って居る。一つ/\洗うて来てある。これからその心でさえ居たら、この道は十分である。今一時困る処待つ。子供という、遠く理楽しんで来たる。今一時の処通る事出来ん。どうも一時が難しいてならん。
さあ/\内々事情、これはもう小さいもの/\。そういう事難しい言うは勝手や。これ何でもない、成程と、一時の処十分の理諭してある処、結構と思えば何ぼうでも結構。この一つ理、古い事は何も言うまでや。

この一つ事思うてみよ。そんな事尽すなら、道を一分なりと尽してみよ。自分の徳はどのくらいか。


明日は飯降の姉弟皆々理を治め、尚本人連れて御詫びに出ます、と申し上げ
要らんと言うなら、要らんにして置け。十分のもの与えてやるのに、要らんと言えば、これから先どうする。これから一つ話してくれ。分かったやろう。

子の処も半端であります、修行のためにまさゑ三箇年御暇を貰うてくれと申し居りますが、如何の事で
あんな者出してどうなるぞ/\。

そういう根性提げて居るによって、どうもならん/\。
出るのならすっきり出て了え。心残り無いようにして出てくれ。これだけ言うて置く。

何と心も、腐るからきついものや。可哀相な者、そんな不孝の者程可愛わいゝ。何と腐ったもの。どうせいでも結構暮らさしたる。これを知りつゝする事なら、是非あろうまい。さあ出るなら出てくれ。心から留まるなら、どうなりと。
これ一つ、言葉の括りの仕舞であるで。
【説明】
(1) 飯降本席のお子たちの治まりにつき、数多く諭されているおさしづの中の一つであるが、親子の間柄がいんねんによる理を端的にお話しいただいたものの一つと思われる。
【摘要】
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。  今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。

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