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清水与之助身上に付伺いしさしづにより、播州講社を巡廻す

さあ/\遠く/\の所、身上にてどうやろう、こうやろうと思て居る者もある。なれど遠くの所にて分かり難ない。講元々々と言う、講元というはこうのうの理を以て講元と言うのや。遅れてある者もある、又一度で聞き分ける者もある、二度三度で聞き分ける者も、一月二月で聞き分ける者もある。一箇年掛かりて聞き分ける者もある。だん/\理を渡さにゃならん。取次々々と言う。取次はをやの代わりや。をやの代わりなれば遠く所分かり難ない。伝えにゃなるまい。聞かさにゃなるまいという。
【説明】
(1) 明治二十一年四月十日天理教会所設置が公認された。七月二十三日東京よりぢばへ移転し、その開講式は十一月挙行された。この開講式に神具一切ほとんどを兵庫神明講社より調達したが、それには清水氏の背後に兵庫真明講社、わけても神戸方講社の支援があった(「教会史資料(一)」参照)。清水氏の身上伺いさしづは明治二十一年七月七日にもあり、「満足さして連れて通るのが親の役や」と取次人の在り方を教えられた。 (2) ぢばより遠く離れた土地で、身上のためどうやろう、こうやろうと思うて煩うものもある。けれども遠方のことでわかりにくい。一体講元というのは何をもって講元というのか。すなわちこうのうの理を積んだ者をもって講元というのである。見渡してみると、道が遅れている者もある。また一度で聞き分ける者もある。二度三度で聞き分ける者、一月二月かかる者、一年かかって聞き分ける者もある。しかしいずれ、だんだんおさづけの理を渡さねばならぬ。取次と言うが、取次はをやの代理である。親神の代理なれば、遠い地方では親神の思いがわかりにくいから伝えねばなるまい。聞かさねばなるまい。
【摘要】
対内出張として ①本部より地方・分教会へ出張の場合 ②上級教会より地方・部内教会へ出張の場合 の二つがあり、①について前項で検討したので、②について考察した。  上級教会より地方・部内教会へ出張する場合、出張理由としていろいろの理由がある。  矢追氏が九州布教に出向く(二六・四・一九)場合のように、地方へ布教のため出張があり、清水氏が播州講社巡廻(二一・八・六)し、諸井氏が国々先々へ巡廻(二四・七・五)のため出向く場合のように、地方信者育成のための出張がある。また甲府支教会長事情に付、諸井氏が出張(二九・一二・六)し、北陸支教会治め方に付、平野氏が出張(三二・一〇・一二)したように、教会事情治めのため出張する場合がある。  このような種々の理由によって地方・部内教会へ出張するに当たって、出張員はどういう心がけで行くべきか、巡教員はどうあるべきか、についておさしづを検討すると、 (1) 取次人はをやの代理である。講元というのはこうのうの理を積んだ者をもって講元というのである。 (2) 親神は子供の陽気ぐらしを待ち望み、限りない親心にあふれている。取次人はこの親心を心として布教に、信者育成に、教会事情治めに出向いてもらいたい。 (3) おたすけに出向く際には、親神がついて歩くも同じことで、どんなことでも守護しよう。  以上は上級教会より部内教会への出張・巡回に当たっての心得であるが、これはあながち部内教会への巡教・出張にのみ言えるものではなく、すべての出張についても言えることである。  最後に、以上述べてきた対外出張・対内出張を通じて、全体の要約を述べると次のごとくになるかと思う。  本部より地方分教会へ出張する場合、また上級教会より部内教会へ出張する場合のいずれも、現在では「巡教」「修理巡教」という言葉を用いられているようであるが、おさしづでは出張・派出・巡廻・巡教という用語を用いている。ただし巡教という語を用いたのは少ない。  なお明治三十五年に十教区を置き、教区ごとに取締員を任命し管内監督に当たらせた。また明治三十七年に本部より地方分教会修理巡教のおさしづが出ている。この二つは本項「出張・巡教」を扱う場合に欠かせぬ重要な事情であると思う。しかし、この項では「全国に十教区を置く事の願」(三五・七・一三)および「十教区取締員の事情に就いては先々へ出張のお許し願」(三五・八・一〇)は、既出のため載せなかった。  対外出張・対内出張のすべてのおさしづに現れた親神の思召しは、次のごとく仰せられているようである。 (1) 人間は親神の懐住まいをしている。まず人間は親神の神意ー天の理を心に治めなければならない。 (2) 親神は「反対するも可愛い我が子」(二九・四・二一)という広大無辺な親心である。したがって、一方が立つだけでなく双方が立つよう、兄も育て弟も育てるよう(三五・五・一八)勤めてもらいたい。親心とは理に厳しい反面、情愛に厚い心であり真実誠の心である。 (3) 取次人はをやの代理である。一人たすけたら万人たすかるのである。おたすけ人には親神がついて歩くも同じことである。ついては取次人、おたすけ人は自ら心を澄みきらせ心を浚えることが肝心である。

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