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松村吉太郎左右の目尻五日前より痛むに付伺

さあ/\身上一つ心得ん、心得ん、未だ心得ん。一時一つの理はあれど心得ん。何よ分かりある。長らく十分の理があれば、今まで十分の理である。内々事情一つそれ相応の理があれば、どうせこうせとは言わん。何かの事情あればどんと一つ事情治まるまい。だん/\身上治めさす。よう聞いて置け。身上一つの理、成るも一つの理。心得ん、案じる。心得んから案じる。案じるから又一つ。どうせこうせは言わん。だん/\理を聞けば、話今までどうして事情運ぶ。事情、所にも一つの理は治めにゃなろまい、治めさゝねばならん。成程事情無くてなろまい。一つ理は成程事情治まるなら、真実理も鮮やかであろう。

押して、国所に於て分教会を設けとのおさしづなるや
さあ/\事情皆尋ね出す。一つ日々諭するある。銘々ほんに成程治まれば、成程の理である。どうせこうせ言わん。身上分かれば心で成程、事情分かればほんに成程。
【説明】
松村吉太郎、高安大教会初代会長。 先案じせずに一つの理を治めよ。即ち高安分教会を設立せよという意味で、、左右の目尻痛むのは左右の人々の顔をうかがってはならぬということを指示されたのであろう。当時松村吉太郎氏が会長となって分教会を設立するについては、氏より古くから信仰している人もあり、いろいろ、気にかかることが多かった模様である。
【摘要】
要約 目に関するおさとしは多い。おさとしを読みつつ痛感することは、ふじゆうなきようにしてやらう かみのこころにもたれつけ 九下り目 2 のお歌である。信心の要は、親神の心にもたれつくことであるが、実はこれが容易なことではない。人間思案の特色、それは案じ心であろう。目のおさとしの中心となるのは、案じ心を捨てよということである。具体的に云えば、子供の将来について、世間と見較べて、家内のこと、また教会内の事情を見て、あんじてはならぬとされている。更に、他人の欠点は見るな。親不孝をするな。因縁の自覚をせよ。お屋敷の理を明らかにせよ。などの例があるが、要するに、目は見るものであるが、それを悪用して人間思案におちいることなく、どこまでも、理を見つめて各自のいんねんを自覚し、親神にもたれて行けという意味のおさとしで、 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする 三下り目7 というお歌の意味を、真に納得できれば、御守護いただけるであろう。身体に備わった九ツの道具は、陽気ぐらしをするために、親神様よりお貸し頂いていることを忘れてはならない。陽気ぐらしのできるように使っていけば御守護をいただけるのである。ところが欲の深い人間は、それを使ってかえって心をいずませ、不足するようになりがちである。

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