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平野楢蔵の願

さあ/\/\身に障りはどういう事と思う。分かろまい。一つ始めたい/\。一度の理は戻ろまい。さあ/\もうこれ何かの処も聞き分けて、これまでの処、初めあれば終りある。内々の処、世界は応法、内々又々の中というは、十分何かの事を待って。さあ/\案じる事は無いで。一日の日に始まりた/\。一日の日は生涯の理、いつ/\までも不自由するやない。一日の日から始まりた一つの理、さあ/\内々寄りやう処、世界は十分大層さすやない、大儀さすやない。後々続くが一つの理、続かにゃならんが一つの理であろうとさしづして置こう。さあ/\/\何かの処、掛かりというものは、覚束無い者もある、何でもと言う者もある。成るに成らんという理、一度定めた理は、末代の理と定めたる所、さあ/\良き所、思う所許そ許そ。さあ/\どちら/\、さあ/\こうしたらよいと思う所、随分にして広く大きい掘りて。
【説明】
(1) 平野楢蔵氏 郡山大教会初代会長 (2) この道のために生命のある限り、と心定めた一日の日から始まった今日の日であろう。元一日の理は教外の理である。いついつまでも不自由することはない。しかし目下のところは、教会は皆の寄りあうところであるから、大義大層させんように、あとあと長く続くよう心がけねばならない。万事物事のはじめというものは、おぼつかない者もあり、これだけは何でもと思う者もある。また成るようで、なかなか成らないということもあろうが、一度定めた心の理は、末代の理と定めてあるから、その心をくずさず通るよう。
【摘要】
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。  そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。  そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。

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