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梶本松治郎二女ミチ夜泣き障りに付伺

さあ/\夜泣き、子が泣く、どんな事情も諭してある。よう聞け。何にも彼も神口説き、皆ふでさきにも知らしてある。読んで分からん。どんなであろう。夜泣きする、夜泣きする。どういう事を口説く。一日の日雨降る、風吹く、春の日はのどか。一年中はどんな日もある。何であったな。一時なる思うなら、どういうものであろう。見えようまい、分かろまい。よう聞き分け。
【説明】
梶本松次郎、初代真柱様令兄。 子供が夜泣きするのは、皆おふでさきに知らしてあるように、神のくどきである。夜泣きするのはどういう事をくどくのかというと、雨の降る日も風の吹く日もあり、又一年中にはのどかな春の日もあり、冬夏のきびしい日もあるが、すべてそうなる理があるのであって、今急にそうなると思うならば、どういうものであろうとくどくであろう。成る理ー因縁の理ーが見えないであろうし、解らんであろうが、よくききわけよ。という意味で夜泣きは親神様のくどきで、そのもとは、親が因縁の理を理解せず、日々くどいてとおるからであることを指示されるのであろう。 \n\n (1) 梶本ミチ姉 初代真柱の実兄梶本松治郎氏二女。 (2) 子供の夜泣きについて、おふでさきに神の口説きであると述べている。 子のよなきをもう心はちがうでな こがなくでな神のくときや (三 29) をや/\の心ちがいのないように はやくしやんをするがよいぞや (三 31) しんぢつに人をたすける心なら 神のくときハなにもないぞや (三 32)  一年中には照る日もあれば曇る日もある。すべて順調にいくとばかり思うならば、親神の真心は見えないであろうが、子供の夜泣きは神の口説きであることを思い起こし、しっかりたすけの心になって通るよう。
【摘要】
子供の夜泣きは 子のよなきをもふ心ハちがうでな こがなくでなかみのくどきや    三 29 のお歌で示されるように、親神様のくどきであるが、その原因は (1)十分いんねんの理を理解せず、日々をたんのうして通れない。 (2)帰参する道の子に十分の満足をあたえることが出来ない。 (3)親が子供の将来を心配して、現在通らせていただく道を不足する。 (4)理にもとづいて、もう一段しっかりした心定めが出来ない。 こと等、成人のもどかしさについてである。 \n\n  子供に関するおさしづを検索すると、次のような点が指摘されている。 一、 親と子の関係 (1) 子供は先祖の魂の生まれ更わりである。親が子となり子が親となり、互いに恩の報じ合いをして通るのである。  山沢さよ姉は祖母に当たる梶本ひさ姉の生まれ更わり、永尾たつゑ姉は永尾家三代前の母の生まれ更わり、増野道興氏は祖父庄兵衛氏の生まれ更わりである。  なお前生いんねん果たしができていなければ、そのいんねんを今生に持ち越す。また親がいんねん切りの道を通れば子供はしあわせになる。親がたすけ一条の道を通らなければいんねんは切れない。 (2) 嗣子はいんねんによって結ばれる。よい子を持つも、よくない子を持つも、すべていんねんによる。 (3) 子供は先祖から受け継いだ理を享けて通るものである。ただ一代限りだと思ってはならぬ。理は末代である。 二、 子供とは (1) 子供は各自持って生まれた徳分を持つ。子供が幾人いても神が引き受ける。 (2) 子供は十五歳まではおやのいんねん、すなわち十四歳以下は親のいんねん、先祖代々のいんねんを担うものであり、十五歳以上は本人の心遣いによる。現在教会本部で戴くおまもりは、十四歳以下は子供おまもりを戴く、十五歳以上は大人のおまもりを戴く。 (3) 子供は宝である。仮に今は宝のように思えなくとも、将来かけがえのない宝である。 三、 子供の身上 (1) 子供の患いは一家中の患いである。 (2) 子供の身上は、親の心遣いの投影である。山沢ミキノ姉の上げ下し、永尾たつゑ姉や梶本ミチ姉の夜泣きは、親の心の投影であると言われる。 (3) 子供の身上より心を定めよ。子供の身上は精神定めの台である。小児深谷景三の身上障りを通し、河原町分教会の事情定めによって、甲賀・水口・湖東の分離昇格が打ち出された。山名分教会の諸井政一氏の身上によって後継者問題が再確認された。 (4) 親にとって子供は可愛いものである。わが子の身上を通し、理の親たるの心をしっかり定めるよう。 四、 子供のない場合 (1) 子供の授からないのは前生いんねんによる。与えられた境遇をたんのうして通ること。 (2) 子供があたわらないのは自分らに、そのあたえがないからであり、しっかり徳を積むよう。 (3) 道を通れば理の子供があたわる。心に思い残すことのないよう勇んで通ること。

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