天理教教祖殿逸話篇
「どこい働きに」
明治十九年三月十二日(陰暦二月七日)、山中忠七と山田伊八郎が、同道でお屋敷へ帰らせて頂いた。 教祖は、櫟本の警察分署からお帰りなされて以来、連日お寝みになっている事が多かったが、この時、二人が帰らせて頂いた旨申し上げると、お言葉を下された。 「どこい働きに行くやら知れん。それに、起きてるというと、その働きの邪魔になる。ひとり目開くまで寝ていよう。何も、弱りたかとも、力落ちたかとも、必ず思うな。 そこで、指先にて一寸知らせてある。その指先にても、突くは誰でも。摘もみ上げる力見て、思やんせよ。」と、仰せになって、両人の手の皮をお摘まみ下されると、まことに大きな力で、手の皮が痛い程であった。両名が、そのお力に感銘していると、更にお言葉があった。 「他の者では、寝返いるのも出けかねるようになりて、これだけの力あるか。 人間も二百、三百才まで、病まず弱らず居れば、大分に楽しみもあろうな。そして、子供は、ほふそ、はしかのせんよう。頭い何一つも出けんよう。百姓は、一反に付、米四石、五石までも作り取らせたいとの神の急き込み。 この何度も上から止められるは、残念でならん。この残念は、晴らさずには置かん。 この世界中に、何にても、神のせん事、構わん事は、更になし。何時、どこから、どんな事を聞くや知れんで。そこで、何を聞いても、さあ、月日の御働きや、と思うよう。これを、真実の者に聞かすよう。 今は、百姓の苗代しめと同じ事。籾を蒔いたら、その籾は皆生えるやろうがな。ちょうど、それも同じ事。」と、お聞かせ下された。