天理教教祖殿逸話篇
「働く手は」
教祖が、いつもお聞かせ下されたお話に、 「世界中、互いに扶け合いするなら、末の案じも危なきもない。仕事は何んぼでもあるけれども、その仕事をする手がない家もあれば、仕事をする手は何んぼでもあるが、する仕事がない家もある。 奉公すれば、これは親方のものと思わず、蔭日向なく自分の事と思うてするのやで。秋にでも、今日はうっとしいと思うたら、自分のものやと思うて、莚でも何んでも始末せにゃならん。 蔭日向なく働き、人を助けて置くから、秋が来たら襦袢を拵えてやろう、何々してやろう、というようになってくる。こうなってくると、双方たすかる。同じ働きをしても、蔭日向なく自分の事と思うて働くから、あの人は如才ない人であるから、あの人を傭うというようになってくる。こうなってくると、何んぼでも仕事がある。 この屋敷に居る者も、自分の仕事であると思うから、夜昼、こうしよう、ああしようと心にかけてする。我が事と思うてするから、我が事になる。ここは自分の家や、我が事と思うてすると、自分の家になる。蔭日向をして、なまくらすると、自分の家として居られぬようになる。 この屋敷には、働く手は、いくらでもほしい。働かん手は、一人も要らん。」と。又、ある時のお話に、 「働くというのは、はたはたの者を楽にするから、はたらく(註、側楽・ハタラク)と言うのや。」と、お聞かせ下された。