天理教教祖殿逸話篇
「これより東」
明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」 と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、 「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで。」と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。 明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。 又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、 「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで。」と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。 こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。 「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ。」と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。 かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。