天理教教祖殿逸話篇
「救かる身やもの」
明治十三年四月頃から、和泉国の村上幸三郎は、男盛りのさ中というのに、坐骨神経痛のために手足の自由を失い、激しい痛みにおそわれ、食事も進まない状態となった。医者にもかかり様々治療の限りを尽したが、その効果なく、本人はもとより家族の者も、奈落の底へ落とされた思いで、明け暮れしていた。 何んとかしてと思う一念から、竜田の近くの神南村にお灸の名医が居ると聞いて、行ったところ、不在のためガッカリしたが、この時、平素、奉公人や出入りの商人から聞いていた庄屋敷の生神様を思い出し、ここまで来たのだからとて、庄屋敷村めざして帰って来た。 そして、教祖に親しくお目にかからせて頂いた。教祖は、 「救かるで、救かるで。救かる身やもの。」と、お声をおかけ下され、いろいろ珍しいお話をお聞かせ下された。そして、かえり際には、紙の上に載せた饅頭三つと、お水を下された。幸三郎は、身も心も洗われたような、清々しい気持になって帰途についた。 家に着くと、遠距離を人力車に乗って来たのに、少しも疲れを感ぜず、むしろ快適な心地であった。そして、教祖から頂いたお水を、 なむてんりわうのみこと なむてんりわうのみことと、唱えながら、痛む腰につけていると、三日目には痛みは夢の如くとれた。 そして半年。おぢば帰りのたびに身上は回復へ向かい、次第に達者にして頂き、明けて明治十四年の正月には、本復祝いを行った。幸三郎四十二才の春であった。感謝の気持は、自然と足をおぢばへ向かわしめた。 おぢばへ帰った幸三郎は、教祖に早速御恩返しの方法をお伺いした。教祖は、 「金や物でないで。救けてもらい嬉しいと思うなら、その喜びで、救けてほしいと願う人を救けに行く事が、一番の御恩返しやから、しっかりおたすけするように。」と、仰せられた。 幸三郎は、そのお言葉通り、たすけ一条の道への邁進を堅く誓ったのであった。