天理教教祖殿逸話篇
「道の二百里も」
明治十四年の暮、当時、新潟県の農事試験場に勤めていた大和国川東村の鴻田忠三郎が、休暇をもらって帰国してみると、二、三年前から眼病を患っていた二女のりきが、いよいよ悪くなり、医薬の力を尽したが、失明は時間の問題であるという程になっていた。 家族一同心配しているうちに、年が明けて明治十五年となった。年の初めから、この上は、世に名高い大和国音羽山観世音に願をかけようと、相談していると、その話を聞いた同村の宮森与三郎が、訪ねて来てくれた。宮森は、既に数年前から入信していたのである。早速お願いしてもらったところ、翌朝は、手の指や菓子がウッスラと見えるようになった。 そこで、音羽山詣りはやめにして、三月五日に、夫婦とりきの三人連れでおぢばへ帰らせて頂き、七日間滞在させて頂いた。その三日目に、妻のさきは、「私の片目を差し上げますから、どうか娘の儀も、片方だけなりとお救け下され。」 と、願をかけたところ、その晩から、さきの片目は次第に見えなくなり、その代わりに、娘のりきの片目は、次第によくなって、すっきりお救け頂いた。この不思議なたすけに感泣した忠三郎は、ここに初めて、信心の決心を堅めた。 そして、お屋敷で勤めさせて頂きたいとの思いと、新潟は当時歩いて十六日かかった上から、県へ辞職願を出したところ、許可はなく、「どうしても帰任せよ。」 との厳命である。困り果てた忠三郎が、「如何いたしましょうか。」 と、教祖に伺うと、 「道の二百里も橋かけてある。その方一人より渡る者なし。」との仰せであった。 このお言葉に感激した鴻田は、心の底深くにをいがけ・おたすけを決意して、三月十七日新潟に向かって勇んで出発した。こうして、新潟布教の第一歩は踏み出されたのである。