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梅谷四郎兵衞家移転願
さあ/\道のために尽す処は、さあ/\世界を眺め、先々の処こういう理は今の処はどうせいとも、こうせいとも言わん。内々の処真実々々々々、又々寄りて、真実真実々々寄りて談示して、今の処はどうせとも言わん。なれども今の理見て、先ず先ず心安にして運べば、又々心に掛かる処は安くなる。真実々々々々寄りて談示するがよい。
【説明】
(1) 尋ねている移転のことについて、どうせよとは言わないが、要は家族の者皆が、道の上につくすという深い真実の心を寄せ、談じ合ってすることが大切で先案じせんでもよい。
(1) 尋ねている移転のことについて、どうせよとは言わないが、要は家族の者皆が、道の上につくすという深い真実の心を寄せ、談じ合ってすることが大切で先案じせんでもよい。
【摘要】
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。