おさしず検索
飯降政甚の伺
さあ/\尋ねる処、身上一寸の事情、どういう事である。案じる。たゞ一つ修行という、深きという。これからどうでも思う。日々の処治まり難ない。それよりの事情計り出す。日々どうでも思う、大抵何も一寸修行という。修行の理は分かりて居る。身上の事情あっては出来難ない。速やかになる。暫くの処これどうであろ。深き何でも十分の学をし、十分の学を治めよう。智者学者あっても何にも治まらせんで。一つの理を始め掛け、日々暮らさせたい。思う道もう暫く。日々の理、事情より治まる理が無きという理を治めくれるよう。
【説明】
(1~2)修業は何でも、十分に深く学問を治めなければならないように思うが、いくら知者学者がいても、それだけではこの世は治まらないのである。この道は神一条の理をもって始めかけたのであり、神は人間に日々身上健やかに暮らさせたい思いばかりである。
(1~2)修業は何でも、十分に深く学問を治めなければならないように思うが、いくら知者学者がいても、それだけではこの世は治まらないのである。この道は神一条の理をもって始めかけたのであり、神は人間に日々身上健やかに暮らさせたい思いばかりである。
【摘要】
お道の修業に当たっての心すべき要点は、次のように考えられる。 (1) 道の修業というのは学問を修めることではなく、心の修業をすることである。あらゆる仕事、特に下働きを通して心を磨くことが肝心である。 (2) 道を通る者は、名称の理を戴き、またその理を末代に残す上に、一通りの苦労を味わい、それに値する道を通らねばならない。 (3) 世間一般の難儀、不自由、苦労艱難を味わうことも大切である。これらを通して身の修業を積むのであるが、しかし心は常に、教祖のひながたの心を、わが心として通ることが肝心である。 (4) 道の者は人の心を汲む修業も必要である。 (5) すべて自分の艱難苦労が、人に満足を与える元になるのである。
お道の修業に当たっての心すべき要点は、次のように考えられる。 (1) 道の修業というのは学問を修めることではなく、心の修業をすることである。あらゆる仕事、特に下働きを通して心を磨くことが肝心である。 (2) 道を通る者は、名称の理を戴き、またその理を末代に残す上に、一通りの苦労を味わい、それに値する道を通らねばならない。 (3) 世間一般の難儀、不自由、苦労艱難を味わうことも大切である。これらを通して身の修業を積むのであるが、しかし心は常に、教祖のひながたの心を、わが心として通ることが肝心である。 (4) 道の者は人の心を汲む修業も必要である。 (5) すべて自分の艱難苦労が、人に満足を与える元になるのである。