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増田甚七左の目障り願

さあ/\身上の処、右左は無いで。一寸の理は諭してある。左善、右悪という理を諭してある。どちらも身の内、難しい身上にも、軽き事情もある。軽き中にも難しい理がある。身の内の処、不足があればいろ/\に思うやろ。思うも理である。身上案ぜる事は要らん。世上へ一つの理が治まってあれば十分という。

押して願
さあ/\いかなる事情を尋ね返えす。日々の処長らえての処、世界は鮮やかな理を伝えてある。これより一ついんねんという事情を一寸諭してある。難しい事せいとは言わんというは諭しの台、又しなと言うても心の理を運ぶなら十分受け取る。成らん事情を勤めよう、運ぶと言うても成らん事は出来ようまい。心だけの事をして居れば、心の内陽気なものや。一日の日は生涯の理と取って、心に運ぶだけは生涯の受け取り、心だけの事情が十分という。これからどういうふうにしよう、こういうふうにしようと言うても、どうせいこうせい言わんが諭しの台。心だけの理を十分運ぶなら、生涯の理に受け取る。
【説明】
増田勘七、郡山大教会二代会長。 左は善、右は悪という理より思案すれば、左目障りということは、案じるには及ばない。世上に対しいろいろ気を使うのも無理ないが、一つの理(天の理)がおさまってあれば、十分に親神が受け取るという意味で、世間の人の顔を見て案ずるなと指示されたのであろう。増田甚七氏は養子であったので、道一條となり、尽くし運ぶ上にいろいろ気兼ねがあったように思われる。
【摘要】
要約 目に関するおさとしは多い。おさとしを読みつつ痛感することは、ふじゆうなきようにしてやらう かみのこころにもたれつけ 九下り目 2 のお歌である。信心の要は、親神の心にもたれつくことであるが、実はこれが容易なことではない。人間思案の特色、それは案じ心であろう。目のおさとしの中心となるのは、案じ心を捨てよということである。具体的に云えば、子供の将来について、世間と見較べて、家内のこと、また教会内の事情を見て、あんじてはならぬとされている。更に、他人の欠点は見るな。親不孝をするな。因縁の自覚をせよ。お屋敷の理を明らかにせよ。などの例があるが、要するに、目は見るものであるが、それを悪用して人間思案におちいることなく、どこまでも、理を見つめて各自のいんねんを自覚し、親神にもたれて行けという意味のおさとしで、 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする 三下り目7 というお歌の意味を、真に納得できれば、御守護いただけるであろう。身体に備わった九ツの道具は、陽気ぐらしをするために、親神様よりお貸し頂いていることを忘れてはならない。陽気ぐらしのできるように使っていけば御守護をいただけるのである。ところが欲の深い人間は、それを使ってかえって心をいずませ、不足するようになりがちである。

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