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平野トラ身の障りに付願

さあ/\事情に心得ん/\という事情尋ねる。事情に心得ん/\というは理の知らせ。尋ね出るは一つの事情、理を聞き取らねばならん。どういう事情の中、幾重の中、身の処に事情無き処という。日々に事情が湧く。日々湧く事情というは、日々に治まる。荒き事情、日々処にては、どんな荒き湧くとも/\分からん。どんな悪気ありても、日々に心に治め。心に控いという事情以て、阿呆らしい、こんな事と思う理があれども心に治めて。この道むさくろしいと思う。むさくろしい中からどんな綺麗なものも出ける。どんな事聞いても残念と思わんよう。むさくろしい中からどんな理が出るやら分からん。順序取り扱い、むさくろしい中からどんな理も出けたもの。どんな綺麗な理も出ける。育つは修理肥、植流し蒔流しでは稔りが無い。十分肥えを出ける。綺麗なものは、事情によってだん/\薄くなる。ほかさにゃならん。どんな事聞きても辛抱。むさくろしい中から綺麗なものは出ける。何か事情身の処から聞き分け。身が不足なればどうもなろうまい。不足思えばどんな事でも出ける。身の処にて案じる事はない。この理を聞き取ってくれるよう。
【説明】
(1) 植え流し、蒔き流しでは稔りがない。信者、部内教会の修理肥が大切であり、修理肥によって育つ。ところが日々に起こり、簡単に治まるような事情ならよいが、どんなに手に負えないような事情が起こってくるかもしれない。しかし日々に心を治めて、阿保らしいというような気持ちは持たないように。 (2~3)むさくるしい中から、どんなきれいなものでもできてくるのだから。だからどんなこと聞いても辛抱するように。 (4)それに病気になることを思えば、どんなこともできるではないか。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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