おさしず検索


春野ゆう七十才目かいの障りに付伺

さあ/\身の処心得ん、どういうものであろう。もう何も思う事あろうまい。思わくもあろうまい。身の処一時心得ん。事情よう諭してやらねばならん。どういう諭し、諭しにも数々事情は要らん。何にも、どうせにゃこうせにゃならんとは言わん。めん/\の心だけの理を諭し、身の処、一寸どういうものである。身の不足些かは、余程と心得、人間事情長らえて、幾重の事情もある。これまでたゞ一時どうせにゃならんとは言わん、治まって居る処、いんねん/\、それ/\いんねんで治まる。結構の中、これはなあ/\必ず思わぬよう。いんねんの理を聞き大き事情、些か些か日々の理によってたんのう。何にも余の儀外の儀は要らん。これだけの理を聞いて、直ぐと治まるである。
【説明】
春野ゆう、本部員春野喜市祖母。 いんねんによって治まっている結構の中、不足に思わず、いんねんを聞き分けて、大き事情を治め、日々ささいな事情をたんのうして通れという意味で、目の障りは、周囲の事情を見て不足してはいけないと指示されたのだろう。
【摘要】
要約 目に関するおさとしは多い。おさとしを読みつつ痛感することは、ふじゆうなきようにしてやらう かみのこころにもたれつけ 九下り目 2 のお歌である。信心の要は、親神の心にもたれつくことであるが、実はこれが容易なことではない。人間思案の特色、それは案じ心であろう。目のおさとしの中心となるのは、案じ心を捨てよということである。具体的に云えば、子供の将来について、世間と見較べて、家内のこと、また教会内の事情を見て、あんじてはならぬとされている。更に、他人の欠点は見るな。親不孝をするな。因縁の自覚をせよ。お屋敷の理を明らかにせよ。などの例があるが、要するに、目は見るものであるが、それを悪用して人間思案におちいることなく、どこまでも、理を見つめて各自のいんねんを自覚し、親神にもたれて行けという意味のおさとしで、 なんでもこれからひとすぢに かみにもたれてゆきまする 三下り目7 というお歌の意味を、真に納得できれば、御守護いただけるであろう。身体に備わった九ツの道具は、陽気ぐらしをするために、親神様よりお貸し頂いていることを忘れてはならない。陽気ぐらしのできるように使っていけば御守護をいただけるのである。ところが欲の深い人間は、それを使ってかえって心をいずませ、不足するようになりがちである。

TOP


お道のツール