おさしず検索
芦津分教会地所の処他にて買い求め度くに付願
さあ/\一時尋ねる事情/\、さあ/\まあ一寸にはこれだけの地場、これだけと思う処、又所変えて思う。いかなる所まあ心のため事情諭し置こう。まあ/\不自由の処、不都合の処、一寸には治まろまい。一時大層な事要らん。大抵は事情治まりたる処、大変の心のため、どうぞいかなる事思うたる一つの理、大変なる所、一つの所不都合であろう。不都合一寸事情、暫くと言うて後々という。これではと言う、これではと言う。それから人々の心寄る。それから一時事情運び、まあ一寸じっとして。事情ならんとは言わん。そのまゝ一寸学び一つという。
押して、今の所にて致しますや願
さあ/\まあ一寸事情、目出度き理だけ治めて、だん/\これでは/\という理見えて来る。だん/\治めるだけ治めて、それよりという。
押して、外の所でさして貰いますや願
さあ/\一寸には不都合であろう/\。不都合なりに、これでという理治めにゃならん。後にいずれ/\の理より、それより理改め替えにゃならん。その日一日というはせにゃならん。他にどう、何処其処々々々々、他にどうという、それは要らん。心だけ一寸理運んで、それよりの理運ぶがよい。
押して、講社だけの事でありますや願
さあ/\まあ/\一寸学びというは、あちらの理を取り、これまでどうという理聞いて居るやろう。聞いて居る理、一寸治まり、一寸学びと言うたるで。これ一寸よう聞き分けてくれねばならん。
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さあ/\まあ一寸事情、目出度き理だけ治めて、だん/\これでは/\という理見えて来る。だん/\治めるだけ治めて、それよりという。
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さあ/\一寸には不都合であろう/\。不都合なりに、これでという理治めにゃならん。後にいずれ/\の理より、それより理改め替えにゃならん。その日一日というはせにゃならん。他にどう、何処其処々々々々、他にどうという、それは要らん。心だけ一寸理運んで、それよりの理運ぶがよい。
押して、講社だけの事でありますや願
さあ/\まあ/\一寸学びというは、あちらの理を取り、これまでどうという理聞いて居るやろう。聞いて居る理、一寸治まり、一寸学びと言うたるで。これ一寸よう聞き分けてくれねばならん。
【説明】
(1) 芦津分教会(現芦津大教会)がそれまで在った真明組事務所の建屋では手狭になったので、開筵式を前にして移転建築を願い出たについてのおさしづである。 (2) 今の所では不自由で都合が悪く、これではと思うであろうが、今一時のところは大層なことはいらない。それよりも何よりも人々の心が寄り集まってくることが大切である。 (3) 今の所で目出度き理だけ治めて(開筵式だけ勤め)、皆の心が治まるだけ治まったならば、教会の建物はこれではならんという気持ちが皆の心にわいてくる。普請はそれからでよい。
(1) 芦津分教会(現芦津大教会)がそれまで在った真明組事務所の建屋では手狭になったので、開筵式を前にして移転建築を願い出たについてのおさしづである。 (2) 今の所では不自由で都合が悪く、これではと思うであろうが、今一時のところは大層なことはいらない。それよりも何よりも人々の心が寄り集まってくることが大切である。 (3) 今の所で目出度き理だけ治めて(開筵式だけ勤め)、皆の心が治まるだけ治まったならば、教会の建物はこれではならんという気持ちが皆の心にわいてくる。普請はそれからでよい。
【摘要】
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。 そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。 そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。
教会普請に関するおさしづは教会設立のおさしづほどではないが、全部となると、やはり相当な数になる。また中には、割り書きに「普請」と明記されていなくとも、叙上の郡山分教会のおさしづのように、教会長の身上を通して普請のおさしづをくだされているような場合もあり、一層数はふえてくる。そして、年次的に初期のおさしづの方がお諭しくださるお言葉も多く、お諭しくださる点も割合に詳しくうかがえるのに対して、後期になると、お言葉も少なく、非常に直截、簡潔なものが多いのは、設立に関するおさしづと同様である。 そうしたところから普請に関するおさしづも、やはり比較的初期のものの中から、いくつかを取り上げさせてもらった。 そこで教会普請について、心得なければならない諸点を要約すれば、次の通りである。 (1) 教会の普請は、人間思案を捨ててかからねばならない。 (2) 教会の普請は、一人や二人の力でできるものではなく、多くの者が一手一つに、神一条の心に心を結び合うことである。 (3) 教会の普請は、単に形の上で建物を建てるのではなく、その普請を進めることによって、めいめいの心を入れ替え、心の成人をさせていただくことである。そして親神は、そのめいめいの心の成人にふさわしい形(大きさ)をご守護くださるのである。 (4) したがって、いかなる計画を立ててみても、それが成るも成らないも、めいめいの心の成人次第である。 (5) 普請には普請をするべき旬がある。その与えていただいた旬をはずさず、理の伏せ込みをさせていただいてこそ、末代変わらない理を戴けるのである。