おさしず検索
山中栄蔵身上障り願
さあ/\身の内の処どうも一時運ぶ。尋ねる処よう事情諭してやってくれ。何よの事も分からせん。十分諭してやりてくれ。一寸あら/\の事情に諭し置く。何とも無くしては知ろまい。夫婦の中と言うてある。夫婦皆いんねんを以て夫婦という。このやしきは尚々いんねんもあろう。よう聞き分け。どういう事聞き分けるなら、道のため尽さにゃならん、運ばにゃならん。こうのう無ければ先々の道あろまい。成るよ行くよ通りて、あたゑという理がある。年限の理に与える至当の花は、よう聞き分け。そこで腰が痛い、動こと思たとて、動からせん。何にも深い思わくあらせん。日々そう/\では受け取る事出けん。そこで、仕切りて思やんするがよい。
【説明】
(1) 夫婦というものは、皆それぞれいんねんを持って結ばれているのものである。なかんずく、このお屋敷は深いいんねんのある所であり、そこに寄せられているのであるから、一度よくその理を聞き分けて道の上の丹精をしっかりせよとの意味で、夫婦の間柄も精神の計らいの中にいんねんある者が寄せられ結ばれていることを、きわめて端的に明示されている。 \n\n (1) 山中栄蔵氏 山中忠七氏の子供で、辻忠作氏娘かめと結婚した。 (2) いんねん寄せての夫婦である。
(1) 夫婦というものは、皆それぞれいんねんを持って結ばれているのものである。なかんずく、このお屋敷は深いいんねんのある所であり、そこに寄せられているのであるから、一度よくその理を聞き分けて道の上の丹精をしっかりせよとの意味で、夫婦の間柄も精神の計らいの中にいんねんある者が寄せられ結ばれていることを、きわめて端的に明示されている。 \n\n (1) 山中栄蔵氏 山中忠七氏の子供で、辻忠作氏娘かめと結婚した。 (2) いんねん寄せての夫婦である。
【摘要】
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。 \n\n (1) 夫婦になるのも、ならないのも、すべて親神の思召し次第である。 (2) 夫婦は夫婦になるいんねんの者が寄り合っているのであり、お互いの中に自分のいんねんを見て暮しているのである。 (3) いんねんどおりの夫婦ができているのであるから、生涯仲よく睦まじく暮らさなければならない。 (4) 仲良く睦まじくするのも、単に倫理的な意味でなく、よふぼくとして成人するためである。それぞれ仕込みを受けるが、心の成人のため互いに心を合わせていくことが大切である。 (5) 親神からの授かりものである子供を、養い育てていくことが夫婦の役目である。
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。 \n\n (1) 夫婦になるのも、ならないのも、すべて親神の思召し次第である。 (2) 夫婦は夫婦になるいんねんの者が寄り合っているのであり、お互いの中に自分のいんねんを見て暮しているのである。 (3) いんねんどおりの夫婦ができているのであるから、生涯仲よく睦まじく暮らさなければならない。 (4) 仲良く睦まじくするのも、単に倫理的な意味でなく、よふぼくとして成人するためである。それぞれ仕込みを受けるが、心の成人のため互いに心を合わせていくことが大切である。 (5) 親神からの授かりものである子供を、養い育てていくことが夫婦の役目である。