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檪本梶本家族おやしきへ引き越し事情願
さあ/\尋ねる事情/\、まあ一寸一つ、皆々の事情にてはどういう事も談示の上、尋ねる処どうせにゃならんとも言わん。いずれ/\だん/\その日事情々々、これ一つ事情ようこれ諭してくれ。尋ねんからと言うても、どうでもこうでもという日が来たら、尋ねいでもさしづする。尋ねるからは、未だ/\早いというさしづをして置こう。
押して、金銭を御助けする願
さあ/\それはもう心に委せ置こう。それは何時なりと許し置くによって。
押して、金銭を御助けする願
さあ/\それはもう心に委せ置こう。それは何時なりと許し置くによって。
【説明】
(1) 明治十七,八年頃、櫟本在住の梶本惣治郎氏(教祖三女おはる様の夫)の子松次郎氏(初代真柱の兄)は、その子宗太郎氏が十三歳になったら親子共おやしきへ引き寄せると教祖からお言葉をいただいた(「梶本宗治郎自叙伝稿」参照)。 (2) 梶本家家族はいよいよおやしきへ引っ越し(入り込み)せねばなりませんかと伺った。梶本家家族のおやしき入り込み事情について尋ねているが、どうしなければならぬとはさしづしない。しかし旬がくれば尋ねに来なくともさしづするから、そのつもりでおるようとの神意。当時宗太郎氏は十六歳。岡山県高梁中学校生徒であった。
(1) 明治十七,八年頃、櫟本在住の梶本惣治郎氏(教祖三女おはる様の夫)の子松次郎氏(初代真柱の兄)は、その子宗太郎氏が十三歳になったら親子共おやしきへ引き寄せると教祖からお言葉をいただいた(「梶本宗治郎自叙伝稿」参照)。 (2) 梶本家家族はいよいよおやしきへ引っ越し(入り込み)せねばなりませんかと伺った。梶本家家族のおやしき入り込み事情について尋ねているが、どうしなければならぬとはさしづしない。しかし旬がくれば尋ねに来なくともさしづするから、そのつもりでおるようとの神意。当時宗太郎氏は十六歳。岡山県高梁中学校生徒であった。
【摘要】
親神の深い思惑から身上・事情にお手入れをいただき、道に引き寄せられ、更に一段の成人を望まれると、旬がくるや待ったなしに道一条にならざるを得ない。この道一条の具体的な形として、教会入り込み(住み込み)ということになる。 飯降伊蔵様はじめ、教祖のおそばにお仕えなされた道の先輩先生方は、はじめ道に引き寄せられて遠方から通われるうちに、だんだん道のご用も繁くなり、徐々におやしき入り込みとなられた方が多い。ここには、」その中のごく一部のおさしづを採録したに過ぎないことをお断りしておきたい。 さて伊蔵様は、元治元年入信以来おやしきへ通われた。 「丸九年という/\。年々おお晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来るものもなかった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\髄いて来てくれたと喜んだ日ある。」(明治34.5.25) 飯降伊蔵様は教祖から親子揃うて早くおやしきへ帰ってくるよう、たびたびお言葉をいただかれたにもかかわらず、道のどん底時代のこと、秀司先生ご夫妻への気がねもあり、親子もろとも移り住むことは教祖にご心配をかけることになるとて逡巡せられたという。しかし明治十四年伊蔵様の家族の身上障り(伊蔵様の腰痛、二女まさえ姉の眼、政甚氏のにわかに口がきけなくなった障り)によって、いよいよ心定めせられ、伊蔵様ご自身が櫟本を引き払っておやしきへ伏せ込まれたのは明治十五年三月であった。伊蔵様五十歳、おさと様四十九歳の時である。かくのごとく伊蔵様は入信以来二十年間櫟本から通われ、その後おやしきへ伏せ込まれることになった。本稿の「教会入り込み」事情の中には、伊蔵様のおやしき伏せ込みについては触れていない。 ところで、教会入り込み(住み込み)事情に関しては、 一、 おやしき入り込み 二、 地方教会入り込み の二つに分けることが出来る。また、教会へ入り込みをする立場の者と、それを迎える側の立場とある。 ここで前掲おさしづによって要約すると、次のことが言えると思う。教会入り込みにあたっては、 (1) 一つの理(親神様の思召)を心に治めること (2) 元一日を忘れず将来末代道のご用に勤めさせて頂くという決心を固めること (3) 住み込み人は理を積み重ねなければ、教会に置いてもらいたいと思っても置いてもらえないこと (4) おやしきに入り込ませていただく者は、どれほどの理がある者でも、ぢばの理が心に治まらねば駄目になること (5) 入り込み人を迎える立場の者は、一つの理(親神の思召)を心に治めてそだててもらいたいということ このような点を心して通るよう仰せられているよう拝察する。これは道一条を通る者の心すべき点、すなわちいんねんの自覚とその洗いかえ、まただめの教えたるゆえんを、よく心に治めるという点に帰するものであろう。(金子圭助)
親神の深い思惑から身上・事情にお手入れをいただき、道に引き寄せられ、更に一段の成人を望まれると、旬がくるや待ったなしに道一条にならざるを得ない。この道一条の具体的な形として、教会入り込み(住み込み)ということになる。 飯降伊蔵様はじめ、教祖のおそばにお仕えなされた道の先輩先生方は、はじめ道に引き寄せられて遠方から通われるうちに、だんだん道のご用も繁くなり、徐々におやしき入り込みとなられた方が多い。ここには、」その中のごく一部のおさしづを採録したに過ぎないことをお断りしておきたい。 さて伊蔵様は、元治元年入信以来おやしきへ通われた。 「丸九年という/\。年々おお晦日という。その日の心、一日の日誰も出て来るものもなかった。頼りになる者無かった。九年の間というものは大工が出て、何も万事取り締まりて、よう/\髄いて来てくれたと喜んだ日ある。」(明治34.5.25) 飯降伊蔵様は教祖から親子揃うて早くおやしきへ帰ってくるよう、たびたびお言葉をいただかれたにもかかわらず、道のどん底時代のこと、秀司先生ご夫妻への気がねもあり、親子もろとも移り住むことは教祖にご心配をかけることになるとて逡巡せられたという。しかし明治十四年伊蔵様の家族の身上障り(伊蔵様の腰痛、二女まさえ姉の眼、政甚氏のにわかに口がきけなくなった障り)によって、いよいよ心定めせられ、伊蔵様ご自身が櫟本を引き払っておやしきへ伏せ込まれたのは明治十五年三月であった。伊蔵様五十歳、おさと様四十九歳の時である。かくのごとく伊蔵様は入信以来二十年間櫟本から通われ、その後おやしきへ伏せ込まれることになった。本稿の「教会入り込み」事情の中には、伊蔵様のおやしき伏せ込みについては触れていない。 ところで、教会入り込み(住み込み)事情に関しては、 一、 おやしき入り込み 二、 地方教会入り込み の二つに分けることが出来る。また、教会へ入り込みをする立場の者と、それを迎える側の立場とある。 ここで前掲おさしづによって要約すると、次のことが言えると思う。教会入り込みにあたっては、 (1) 一つの理(親神様の思召)を心に治めること (2) 元一日を忘れず将来末代道のご用に勤めさせて頂くという決心を固めること (3) 住み込み人は理を積み重ねなければ、教会に置いてもらいたいと思っても置いてもらえないこと (4) おやしきに入り込ませていただく者は、どれほどの理がある者でも、ぢばの理が心に治まらねば駄目になること (5) 入り込み人を迎える立場の者は、一つの理(親神の思召)を心に治めてそだててもらいたいということ このような点を心して通るよう仰せられているよう拝察する。これは道一条を通る者の心すべき点、すなわちいんねんの自覚とその洗いかえ、まただめの教えたるゆえんを、よく心に治めるという点に帰するものであろう。(金子圭助)