おさしず検索
河久保豫章身上三島村にて借宅住居するにより清水与之助、梅谷四郎兵衞の両名世話するに付願
さあ/\だん/\事情以て尋ねる処、この道一つというは、何も分からん事情々々なれど、どんな者でもこんな者でも、皆んな一つ/\心という理以て、どうでもこうでも真実理、強ってどうでもこうでも、それ/\互い/\理結んでやるがよい。よう聞き分け。俺がと言う者がどうもならん。神の方から捨てんなれど、理としてすたる。どんな者でも道というは、皆兄弟と諭したる。そこで真実供えて、こうという処なら、まあ一つ取り計らうがよかろう。
押して、同人には孫大太郎なる付き添い御許し願
さあ/\尋ねる事情/\、人は幾人何人無けりゃならんとは言わん。皆んな心という理治まるやろう。治まれば互い/\の理である。これまで言うたる。深い学問は要らんと言うたる。道というは艱難苦労して、それ/\理積んだる理はたゞ一つの理に治まりたる。そこで、学問有る者も無き者も皆同じ事、皆んなをやが育てゝ居る。門掃く者も、拭き掃除する者も同じ事、又一つ、空働くも一つ、理は一つ。育てるは上、上を崇め敬まうは下、これ分かれば何も無きものである。これだけよう聞いて置け。
押して、同人には孫大太郎なる付き添い御許し願
さあ/\尋ねる事情/\、人は幾人何人無けりゃならんとは言わん。皆んな心という理治まるやろう。治まれば互い/\の理である。これまで言うたる。深い学問は要らんと言うたる。道というは艱難苦労して、それ/\理積んだる理はたゞ一つの理に治まりたる。そこで、学問有る者も無き者も皆同じ事、皆んなをやが育てゝ居る。門掃く者も、拭き掃除する者も同じ事、又一つ、空働くも一つ、理は一つ。育てるは上、上を崇め敬まうは下、これ分かれば何も無きものである。これだけよう聞いて置け。
【説明】
(1) 河久保豫章氏 郡山部属生駒支教会(現大教会)の信者。宮内省で雅楽を修めた楽人、郡山分教会に住み込んだこともある。 (2) 知者・学者は何でもできると重宝がるけれども、そうした意味の深い学問は、おみちにはいらないと言うてある。道というものは、めいめいが難儀苦労の道を通って、それぞれ理を積んでこそ一つの理も治まるのである。道では学問のある者もない者も皆同じことである。みんな親神の守護によって育てられているのである。学問を身につけた者も、門掃きをする者も、拭き掃除する者も、また空働きのような仕事でも勤めた理は、みな同じ一つの理である。
(1) 河久保豫章氏 郡山部属生駒支教会(現大教会)の信者。宮内省で雅楽を修めた楽人、郡山分教会に住み込んだこともある。 (2) 知者・学者は何でもできると重宝がるけれども、そうした意味の深い学問は、おみちにはいらないと言うてある。道というものは、めいめいが難儀苦労の道を通って、それぞれ理を積んでこそ一つの理も治まるのである。道では学問のある者もない者も皆同じことである。みんな親神の守護によって育てられているのである。学問を身につけた者も、門掃きをする者も、拭き掃除する者も、また空働きのような仕事でも勤めた理は、みな同じ一つの理である。
【摘要】
教育の問題では、一、教育施設についての問題と、二、個人の教育に関しての問題とに大別できる。 一、 教育施設についての問題については、本教の教育施設の嚆矢は明治三十三年四月一日に開校した天理教校であるが、おさしづには先に挙げたように、この天理教校の設置、資金募集、開校式、校舎新築などについての一連のおさしづがある。これによって学校設置、教育についての神意は、おおよそ次のように考えられる。 (1) 学校は一時応法の道として許そう。 (2) この道の仕事は、みなその理の成ってくる元がある。それは、すべて神の思惑から出たもので、神一条の順序の理によって、すべて成ってくる。神の思惑を悟り、人間思案に流れず、応法の道は応法の道として心し、あくまで神一条を忘れぬように。 (3) 皆寄り合って心を揃え、面白く楽しくやるように。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (4) 校舎は初めから大きいことは考えないように。初めはざっとした間に合わせのもので、雨露さえ凌げたらよい。小さいところから、ぼつぼつしていけば、そこに楽しみもある。 (5) 教育にあったては、できるだけ多く教理を聞かし、どの子供もこの子供も皆、道の柱となるように仕込むように。しっかり仕込んだら、それだけ働きのできる道になる。 二、 個人の教育に関しての問題については、そう多くのおさしづはないが、その中から要点を拾ってみると、次のように考えられる。 (1) 道の者が教育を受ける場合、どこの学校に行くかは、それぞれの思うところに任せる。 (2) 学問のあるものを重宝がる傾向があるが、お道では学問のある者もない者も同じことで、皆めいめいが道の理を積むことが大切である。道の上の仕事は、皆同じ理である。 (3) 道の者は何事も一般のことは、ほんの一通りできたらよいので深くはいらない。大切なのは道の仕込みを、しっかりすることである。 (4) 学問の道もしばらくはよい。道の者は、その短い期間を三倍にも値するように、精出して励むことが望ましい。
教育の問題では、一、教育施設についての問題と、二、個人の教育に関しての問題とに大別できる。 一、 教育施設についての問題については、本教の教育施設の嚆矢は明治三十三年四月一日に開校した天理教校であるが、おさしづには先に挙げたように、この天理教校の設置、資金募集、開校式、校舎新築などについての一連のおさしづがある。これによって学校設置、教育についての神意は、おおよそ次のように考えられる。 (1) 学校は一時応法の道として許そう。 (2) この道の仕事は、みなその理の成ってくる元がある。それは、すべて神の思惑から出たもので、神一条の順序の理によって、すべて成ってくる。神の思惑を悟り、人間思案に流れず、応法の道は応法の道として心し、あくまで神一条を忘れぬように。 (3) 皆寄り合って心を揃え、面白く楽しくやるように。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (4) 校舎は初めから大きいことは考えないように。初めはざっとした間に合わせのもので、雨露さえ凌げたらよい。小さいところから、ぼつぼつしていけば、そこに楽しみもある。 (5) 教育にあったては、できるだけ多く教理を聞かし、どの子供もこの子供も皆、道の柱となるように仕込むように。しっかり仕込んだら、それだけ働きのできる道になる。 二、 個人の教育に関しての問題については、そう多くのおさしづはないが、その中から要点を拾ってみると、次のように考えられる。 (1) 道の者が教育を受ける場合、どこの学校に行くかは、それぞれの思うところに任せる。 (2) 学問のあるものを重宝がる傾向があるが、お道では学問のある者もない者も同じことで、皆めいめいが道の理を積むことが大切である。道の上の仕事は、皆同じ理である。 (3) 道の者は何事も一般のことは、ほんの一通りできたらよいので深くはいらない。大切なのは道の仕込みを、しっかりすることである。 (4) 学問の道もしばらくはよい。道の者は、その短い期間を三倍にも値するように、精出して励むことが望ましい。