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松村吉太郎足の障りに付願

さあ/\尋ねる事情/\、身上に事情どうも心得んと言う。いかな事情、尋ねるには一つ心という理を以て尋ねる。心に持って尋ねる理なら、一つの理も諭そう。さしづはおろかには思われん。同じ一つの理を皆諭すのや。よう聞き分けねば鮮やか分からん。さしづの理が鮮やか分からねば、心の理も鮮やかならん。それ身上という、鮮やかとは言えようまい。いろ/\事情心にどうなるこうなる、思う理は無きもの。たった一つの理が道という、世界という。教一つの理には変わった理は無い。変わった事情は皆心という。心は幾重の理にも計れるもの。身上心得ん。銘々思う理が心得ん。重なる処芯なる処、善い事も悪い事も皆一つの所へ集まり来る。心という理から満足与えにゃならん。何でも彼でも、これだけという理は要らんもの。満足一つの理より道を作る。心の尽し心の運び、万事の処夜も寝られようまい。なれど一つよう聞き分け。夜々苦しまんならん道ではあろまい。一人の理やない。皆んな同じ一つの理を、一人に諭する理、銘々これより、だん/\どんな事情あるとも、成らん事情重なって来るとも分からん。心も騒がしであろう。騒がし中に身上に事情あれば、そこ退け、放って置かにゃなろまい。よう聞き分け。それ/\些かなるもたんのう、多分の理もたんのう、些かのなるものは、尚もたんのう。もうこれまで集まれば、中に皆んなそれ/\心を合わせて運ぶ処、よう諭して銘々も成るべくだけは、たんのうして掛からにゃならん。自分たんのうすれば、先はたんのう。銘々不足思えば、先の不足は何ぼとも知れん。身上不足から尋ねたら、こういうさしづあったと、心寄ったる皆々の理に諭してくれるがよい。

押して、たんのうの理に付伺
さあ/\分教会一条、有る無いは一つの理、些かなるもたんのう、多分もたんのう。銘々不足思えば、先の不足は何ぼとも知れん不足になるで。
【説明】
松村吉太郎、高安分教会初代会長。 主だった中心となるものに、良い事も、悪い事も皆集まって来る。物の面では乏しくても、心の面で満足をあたえなければならん。何でもかでもこれだけと限ることはいらない。心の面で満足をあたえることより道をつくるのである。万事について心を尽くし、心を運ぶために夜もねられないであろう。けれどもよう聞き分けよ。皆がたんのうの心を治めれば、毎夜苦しまなければならぬ道ではないであろう。各自僅かな場合もたんのうし、又沢山な場合もたんのうせよ。特に僅かな場合はたんのうせよ。もうこれまでに住み込み人が集まれば、内々皆夫々心を合わせてやって行く場合、よくさとして、各自も出来るだけ、たんのうしてかからなければならない。自分がたんのうすれば先方もたんのうする。各自が不足に思えば、先方の不足はどれほどともしれない。分教会の運営については、豊かな時と貧しいときとがあるが、、僅かの場合もたんのうし、又沢山の場合もたんのうせよ。各自不足に思えば、先方の不足はどれだけとも知れない不足になる。という意味で、足の障りは、先ず自分からたんのうし、十分心の尽くし心の運びをして、先方を満足さしてやるようにということを指示されたのであろう。 \n\n (1) 松村吉太郎氏 高安大教会初代会長。 (2) 主だった中心となる者に、よいことも悪いことも皆集まってくる。満足を与えることにより道を作るのであるから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えねばならない。万事について心をつくし、心を運ぶために夜も寝られないであろう。けれども、よう聞き分けよ。皆がたんのうの心を治めれば、毎夜苦しまねばならぬ道ではないであろう。 (3~4)あれもこれもせねばならぬという場合でも、自分の身上や事情が起こってくると、全部放っておかねばならない。だから各自わずかな場合もたんのうし、また、たくさんな場合もたんのうせよ。特に、わずかな場合はたんのうせよ。もうこれまでに住み込み人が集まれば、内々皆それぞれ心を合わせ、たんのうしてかからねばならない。各自が不足に思えば先方の不足はどれほどとも知れない。 (5)分教会の運営については、豊かな時も貧しい時もあるが、どんな場合もたんのうせよ。各自不足に思うと、先方の不足はどれだけとも知れない不足になる。
【摘要】
足は、歩くものー通るものー運ぶものー実行するものーである。足の障りについて、、(1)因縁納消の道を通れ(2)一段又一段成人の道を歩め(3)相手に心の尽くし心の運びをせよ――まず自分がたんのうし、先方にもたんのうしてもらう(4)定めた事情を早く実行せよというおさとしは、足の機能から考えると、よく納得されるであろう。 \n\n 教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。

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