おさしず検索
増野いと身上願
さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情は身上、さあまあこの中良きかと思えば又身上に心得ん事情掛かり、善き事なら思う事無い。身上もう一時ならん迫る事情尋ねるから、事情にはこれまでいろ/\諭したる。どんな事にも諭し掛けたる。いかなる事情にも諭したる。そんならめん/\身上、心にどうと又あろ。諭に、幾重諭したる。何処へ掛かるとも分からん。事情はさあ女の道がある。皆惣計女の道あるなれど、女の道に男女とは言わん。この道どうも分からん。そこでよう聞き分け。惣計の中談示の台に出す。よう聞き分け。数々中ある。数々中ありて日々働いて居る。この中一つ理という。道によって古い新しの理がある。新しい中にも、古い中にも、どういう理もある。又古いだん/\の理もある。一時女、婦人会として始め掛け。これ人間が始め掛けたのやない。神が始めさしたのや。これは古い道にこういう理がある、こういう事があると、互い/\研究始めたら、いかな理ある、どんな理もある。元々一人から艱難苦労の道通り、又中に道始まる理に繋ぎ、事情から始め通りたる者ある。たゞ年限ありて心にこう無くば古いとは言えようまい。こうのう無くば、まあそうかいなあというようなもの。よう聞き分けて内々迫れば、相談の芯という。芯から始めたら心分かる。女研究、何ぼでもぢばという中に、これまでにも治まる理無くばどうもならん。刻限でも諭し、諭にもよう/\という。婦人会始め掛け。始め掛けたらよう思やんせにゃならん。道に艱難の道という、通りたる事情、婦人会というは何のためにするのや。義理でするやない。又人間の体裁でするやない。又世上に対してするやなし。婦人会というは、道始めて互い/\の諭し合いの道治めてやれ。今日入ったも女、古い理も女、艱難苦労通りたか通らんか分かる。入りた道ある。遠い所から来てる者もある。又近い所から来てる者もある。どうやろなあというような道から、へばり付いたような者もあれば、又運んだ道もあれば、道に染まりて入りた者あれば、今日入った者もある。婦人会という道聞き分けて、今日は一つ、埋もれ/\切ってあるという。
押して
さあ/\会議というて話し掛けた処、そんなら神の話、思う一条の話、十人なら十人出ける話とは言わん。数々中に付き合わせ、世上男女言わん。何程女でも道のため運んだこの事情聞き分けにゃならん。これ聞き分けにゃならんで。そこで尋ねても、道だけ筋立てば同等のもの。よう聞き分けて通さにゃならん。互い/\道はどういう処から取りて居る。
押して、皆相談しましてと願
さあ/\よう思やんして、皆それ/\身上迫れば心治まらん/\。世界明るく、道にほこりありては、元ぢばと言えん。女であれど、元々尽したこうのうという。元元女でもあれだけのこうのうあるか、と、知らさにゃならん。
【説明】
(1)増野いと姉 本部員・増野正兵衛氏夫人。 (2)このたびの事情は、道の夫人としての通り方について諭そうと思うのだが、これは単に女の道と男の道と違いはない。そこで、この道の通り方であるが、お前たちにはまだ十分にわかっていないようである。そこでこれからの話を、よく聞き分けてもらいたい。つまり多くの者が、この道の通り方について談じ合う際の台となる話をするので、しっかりと聞き分けてもらいたい。これまでに多くの者が、この道についてくるようになり、また今日では、このやしきにも多くの者が日々勤めてくれるようになった。そしてその中には、つくし運んだ年限によって、古い者も新しい者もあり、また、その成人の程度もいろいろである。そこでこの際、それらの婦人の成人のよすがとして、婦人会を始めかけるがよい。また、これは人間の考えから始めるのでは決してなく、神の思惑から始めさすのである。 (3)婦人が寄り集い、教えの理の研究をするということは、このぢばにおいて、もっと早くから始められるべきものであった。これまでにも刻限話や旬々のさしづにも諭してきたが、今日まで事が進まず、やっと今日の日となったのである。また婦人会を始めるについては、いかに神の思いが深くあるかということを思案してもらいたい。これまで艱難の道も通り、今日の結構の道となり婦人会も始めることともなったのであるが、婦人会は決して、人間の義理や体裁でするのでもなければ、また世間に対してするのでもない。婦人会は、どこどこまでも互いの談じ合いの場であり、各人の成人の実を収める場でなくばならん。
(1)増野いと姉 本部員・増野正兵衛氏夫人。 (2)このたびの事情は、道の夫人としての通り方について諭そうと思うのだが、これは単に女の道と男の道と違いはない。そこで、この道の通り方であるが、お前たちにはまだ十分にわかっていないようである。そこでこれからの話を、よく聞き分けてもらいたい。つまり多くの者が、この道の通り方について談じ合う際の台となる話をするので、しっかりと聞き分けてもらいたい。これまでに多くの者が、この道についてくるようになり、また今日では、このやしきにも多くの者が日々勤めてくれるようになった。そしてその中には、つくし運んだ年限によって、古い者も新しい者もあり、また、その成人の程度もいろいろである。そこでこの際、それらの婦人の成人のよすがとして、婦人会を始めかけるがよい。また、これは人間の考えから始めるのでは決してなく、神の思惑から始めさすのである。 (3)婦人が寄り集い、教えの理の研究をするということは、このぢばにおいて、もっと早くから始められるべきものであった。これまでにも刻限話や旬々のさしづにも諭してきたが、今日まで事が進まず、やっと今日の日となったのである。また婦人会を始めるについては、いかに神の思いが深くあるかということを思案してもらいたい。これまで艱難の道も通り、今日の結構の道となり婦人会も始めることともなったのであるが、婦人会は決して、人間の義理や体裁でするのでもなければ、また世間に対してするのでもない。婦人会は、どこどこまでも互いの談じ合いの場であり、各人の成人の実を収める場でなくばならん。
【摘要】
(1) 婦人会の出来たちは、人間の申し合わせでできたものではなく、親神の神意に基づくものである。 (2) この集まりは、単なる同好者の集まりであってはならない。どこどこまでもぢば一つの理に立ちきり、世界たすけ、陽気ぐらしへの世の立て替えの上に、婦人という立場に一手一つに結ぶ合いつつ、個々の成人に努める場でなくばならない。 (3) そのためには、婦人といえども引っ込み思案でいるのではなく、進んで教理研究もし、その上からの談じ合いもしなければならない。 (4) そして、この会の治め向きについては、少数の限られた者だけの思いで進めるのではなく、みんなが納得して、共に喜び進める道でなくばならん。 (5) また、これらのおさしづは単に、婦人に対してというにとどまらず、男女の区別なく道を通る者すべてに対してお諭しくだされている。
(1) 婦人会の出来たちは、人間の申し合わせでできたものではなく、親神の神意に基づくものである。 (2) この集まりは、単なる同好者の集まりであってはならない。どこどこまでもぢば一つの理に立ちきり、世界たすけ、陽気ぐらしへの世の立て替えの上に、婦人という立場に一手一つに結ぶ合いつつ、個々の成人に努める場でなくばならない。 (3) そのためには、婦人といえども引っ込み思案でいるのではなく、進んで教理研究もし、その上からの談じ合いもしなければならない。 (4) そして、この会の治め向きについては、少数の限られた者だけの思いで進めるのではなく、みんなが納得して、共に喜び進める道でなくばならん。 (5) また、これらのおさしづは単に、婦人に対してというにとどまらず、男女の区別なく道を通る者すべてに対してお諭しくだされている。