おさしず検索
飯降まさゑ久しく背中の骨痛みに付願
さあ/\尋ねる処/\、いつや一つ尋ねて、後々順序諭すれど、とんと分かり難ない。どう聞いて分かるやろ。分からんから未だ身上障るという。前々尋ねる事情どういう順序に成ると尋ねたら、後々諭したる。未だ順序悟り分からんから分からん。あら/\の理は諭してある。聞きよう取りようで、順序の理分からん。そこで、明らか順序諭すによって、よう聞き分け。筆に一つ点、一つ筆に諭し置く。筆に諭し置いたら違うまい。仮名な事で諭す。もう悟り要らん。どうでやろ、こうでやろと思やんは要らん。よう聞き分けて、定めて了え。決めて了え。これまで分からんから、あちら眺めてどう、こちら眺めてどう、よう聞き分け。一時の理に心定める理諭す。そこで安心と思えば、直ぐとすっきりする。心に治まらんからいつ/\障る。これ十分なる理諭す。もう一度尋ねる事要らん。理諭す。今日一つの諭は、一代やない、いつ/\何代の理。又取次理に諭す。後へ/\の理に諭す。年限理から諭したら、万劫末代理という。又取次にも取り治め。第一一代二代三代、何代でも同じ事、一代の理は万事。今一時の処世界一々分かる。順序広く中通り抜け/\、通したる理尋ねる/\理諭す理、人間心とは更々思われようまい、又思わしょうまい。席と言うたら、同じ人間である/\。なれど、席に立って諭すは、天よりの諭である。この事、適う適わんは取次にある。教祖から順序の道、一つの理聞いて居る。裏一つの理表一つの理二つは一つの理。この区域今親がある。親亡くなったらどうであろうこうであろ、思う事すっきり間違うてある。株たあっていつ/\まで芽が吹く。心というは皆一名一人の心がある。心の唱え損いはどうもならん。親が亡くなったら、どうしょうというような事では分からん。我は年が行く、どうであろうと更々要らん。この理心から出る。人間というものは第一思い開き。女一人で立たんやない。心に持って治まる。やしき伏せ込んだ理はよう/\と思う。よう聞き分け。あら/\心あっても今に日分からなんだ。日々だん/\運ばし身の内入り込み、だん/\順序数え込んでみよ。人間心でして居るようさら/\思わりょまい。もう、席伏せ込んだ理は台にある。欠けて了てはどうもならん/\。案じる事さらに要らん。親の後は子である。親に子が無けねば、貰てなりと末代という。よう聞き分け。心が悔やめば、切りが無い、果てが無い。女一人でも、どんな事でも成らんやない。道の理速やか覚え込んで治まったら、だん/\席までさす。別席までさす。これが間違いと思たら、間違う。聞き違えば違う。さあ/\心配する事要らんで。親は一代理は末代、神は末代。理は違わん。この理聞き分けて置け。
【説明】
何時か尋ねたので、その後順序の理をさとしたが、全く解らない。どう聞いたら解るのであろう。わからないから身上にさわるのである。 本席というたら、同じ人間である。けれども席に立ってさとすのは、天よりのさとしが叶うか叶わないかは取次にある。本席となったのは教祖より順序の理である。今までに一つの道聞いている。表大工裏鍛冶屋という二つの理は一つの理であるが、この区域をはっきりすることが大切である。今親があるが、親がなくなったらどうであろうこうであろうと思うことはすっきり間違うている。株があって何時までも芽がふく。心というは皆一人々々別である。心のとりぞこないはどうもならない。親が亡くなったらどうしようと云うようなことでは、理が解らない。私は年が行く、どうであろう、と心配することは少しもいらない。心配するのは人間心から出る。人間というものは、第一思いひらきが肝要である。女一人で立たないということはない。心に理を持って治まるのである。 本席様が伏せ込んだ理は台にある。それを掲げてしもてはどうもならんが、しかし案じることは少しもいらない。親のあとは子である。親に子がなければ、貰てなりと末代の理を継承ささなければならぬ。女一人でも、どんな事でも出来ないことはない。道の理すみやかに憶えこんで治まったら、だんだん別席の取次までさす。親は一代であるが理は末代である。神は末代で理は違わない。という意味で、背中の骨の痛みは、よく因縁を自覚し、人間心をすてて、親のふせ込んだ理を継承せよという順序の理を指示されたのであろう。
何時か尋ねたので、その後順序の理をさとしたが、全く解らない。どう聞いたら解るのであろう。わからないから身上にさわるのである。 本席というたら、同じ人間である。けれども席に立ってさとすのは、天よりのさとしが叶うか叶わないかは取次にある。本席となったのは教祖より順序の理である。今までに一つの道聞いている。表大工裏鍛冶屋という二つの理は一つの理であるが、この区域をはっきりすることが大切である。今親があるが、親がなくなったらどうであろうこうであろうと思うことはすっきり間違うている。株があって何時までも芽がふく。心というは皆一人々々別である。心のとりぞこないはどうもならない。親が亡くなったらどうしようと云うようなことでは、理が解らない。私は年が行く、どうであろう、と心配することは少しもいらない。心配するのは人間心から出る。人間というものは、第一思いひらきが肝要である。女一人で立たないということはない。心に理を持って治まるのである。 本席様が伏せ込んだ理は台にある。それを掲げてしもてはどうもならんが、しかし案じることは少しもいらない。親のあとは子である。親に子がなければ、貰てなりと末代の理を継承ささなければならぬ。女一人でも、どんな事でも出来ないことはない。道の理すみやかに憶えこんで治まったら、だんだん別席の取次までさす。親は一代であるが理は末代である。神は末代で理は違わない。という意味で、背中の骨の痛みは、よく因縁を自覚し、人間心をすてて、親のふせ込んだ理を継承せよという順序の理を指示されたのであろう。
【摘要】
脊椎は頚椎(七個)胸椎(十二個)腰椎(五個)仙椎(五個)尾椎(四-六個)つまり、三十数個の骨片の順序立つ配列により成り立っているのである背骨痛をもって子が親の理を継承して行く順序の理を指示され、勝手な人間思案から順序の理を不足したり、無視してはならぬと教えていられる点、成程とうなずけるものがあろう。
脊椎は頚椎(七個)胸椎(十二個)腰椎(五個)仙椎(五個)尾椎(四-六個)つまり、三十数個の骨片の順序立つ配列により成り立っているのである背骨痛をもって子が親の理を継承して行く順序の理を指示され、勝手な人間思案から順序の理を不足したり、無視してはならぬと教えていられる点、成程とうなずけるものがあろう。