おさしず検索
春野喜市長男貞造咳厳しくに付願
さあ/\尋ねる事情/\、小人と言うやろう。さあ/\見るまでは、どういうものともこういうものとも分からん。見るや否や親子という/\。見るまでどうやらこうやら分からん/\。小人という、親というは、小人の処、親という理はどうでもこうでも中に皆ある。子ある、親ある、未だ親ある。この理聞き分け。めん/\掛かりて来にゃ分からん/\。知らず/\通り来たる。これから言葉諭す。諭しから自由の道知らしたい。順序長らえての中である。親というは、長らえての中の道理聞き分け。顔見たらめん/\もその道理、苦労めん/\して見にゃ分からん。我が事に掛かれば、遁れるに遁れられん。よう聞き分け。小人もうならんかと思う。なれど、一寸大層。なれど、親に成る程、神の道は恐ろしい怖わいものやなあ。この道理のほどきよう諭す。一時どうでもない。なれど、うっかりして居られんで/\。
押して、親という処を諭し下されますが、老母の処お諭し下されますや
さあ/\尋ねる処/\、理は二つといえど、一時以てどうとあろうまい。なれど、一つ長らえて事情運んだ。その日実分かりたら、どちらからもどうしょうやないか、こうしょうやないかと、その心に添わにゃならん。
押して、親という処を諭し下されますが、老母の処お諭し下されますや
さあ/\尋ねる処/\、理は二つといえど、一時以てどうとあろうまい。なれど、一つ長らえて事情運んだ。その日実分かりたら、どちらからもどうしょうやないか、こうしょうやないかと、その心に添わにゃならん。
【説明】
(1) 春野喜市氏 本部員、春野利三郎の養子。 (2) 子供の顔を見るまでは、どういう子供かわからなかったが、顔を見るや否や親子という。子供といい親というが、その子供は親の親、すなわち利三郎の生まれ更わりであることを聞き分けてもらいたい。 春野家は初代および二代は今津屋利三郎、三代目が春野姓を名乗り春野利三郎で、貞造氏は春野利三郎氏の生まれ更わりであると言われた。以上、子供は先祖の魂の生まれ更わりであるから、十分心して育てるよう教えられている。 \n\n (1) 春野喜市氏 本部員。 (2) 子供を見るまでは、この子供がどういういんねんをもつものかわからなかったであろう。子供が生まれるや、親子と言っている。子供と言い親と言うているのは、この子供に親の理が皆あるということである。子があり、親があり、またその親がある。このことを、よく聞き分けるように、と親が子となり、子が親となることを教えくだされている。
(1) 春野喜市氏 本部員、春野利三郎の養子。 (2) 子供の顔を見るまでは、どういう子供かわからなかったが、顔を見るや否や親子という。子供といい親というが、その子供は親の親、すなわち利三郎の生まれ更わりであることを聞き分けてもらいたい。 春野家は初代および二代は今津屋利三郎、三代目が春野姓を名乗り春野利三郎で、貞造氏は春野利三郎氏の生まれ更わりであると言われた。以上、子供は先祖の魂の生まれ更わりであるから、十分心して育てるよう教えられている。 \n\n (1) 春野喜市氏 本部員。 (2) 子供を見るまでは、この子供がどういういんねんをもつものかわからなかったであろう。子供が生まれるや、親子と言っている。子供と言い親と言うているのは、この子供に親の理が皆あるということである。子があり、親があり、またその親がある。このことを、よく聞き分けるように、と親が子となり、子が親となることを教えくだされている。
【摘要】
子供に関するおさしづを検索すると、次のような点が指摘されている。 一、 親と子の関係 (1) 子供は先祖の魂の生まれ更わりである。親が子となり子が親となり、互いに恩の報じ合いをして通るのである。 山沢さよ姉は祖母に当たる梶本ひさ姉の生まれ更わり、永尾たつゑ姉は永尾家三代前の母の生まれ更わり、増野道興氏は祖父庄兵衛氏の生まれ更わりである。 なお前生いんねん果たしができていなければ、そのいんねんを今生に持ち越す。また親がいんねん切りの道を通れば子供はしあわせになる。親がたすけ一条の道を通らなければいんねんは切れない。 (2) 嗣子はいんねんによって結ばれる。よい子を持つも、よくない子を持つも、すべていんねんによる。 (3) 子供は先祖から受け継いだ理を享けて通るものである。ただ一代限りだと思ってはならぬ。理は末代である。 二、 子供とは (1) 子供は各自持って生まれた徳分を持つ。子供が幾人いても神が引き受ける。 (2) 子供は十五歳まではおやのいんねん、すなわち十四歳以下は親のいんねん、先祖代々のいんねんを担うものであり、十五歳以上は本人の心遣いによる。現在教会本部で戴くおまもりは、十四歳以下は子供おまもりを戴く、十五歳以上は大人のおまもりを戴く。 (3) 子供は宝である。仮に今は宝のように思えなくとも、将来かけがえのない宝である。 三、 子供の身上 (1) 子供の患いは一家中の患いである。 (2) 子供の身上は、親の心遣いの投影である。山沢ミキノ姉の上げ下し、永尾たつゑ姉や梶本ミチ姉の夜泣きは、親の心の投影であると言われる。 (3) 子供の身上より心を定めよ。子供の身上は精神定めの台である。小児深谷景三の身上障りを通し、河原町分教会の事情定めによって、甲賀・水口・湖東の分離昇格が打ち出された。山名分教会の諸井政一氏の身上によって後継者問題が再確認された。 (4) 親にとって子供は可愛いものである。わが子の身上を通し、理の親たるの心をしっかり定めるよう。 四、 子供のない場合 (1) 子供の授からないのは前生いんねんによる。与えられた境遇をたんのうして通ること。 (2) 子供があたわらないのは自分らに、そのあたえがないからであり、しっかり徳を積むよう。 (3) 道を通れば理の子供があたわる。心に思い残すことのないよう勇んで通ること。 \n\n (1) 人間は、この世に今まで幾度となく、生まれ更わり出更わりして来ているもので、前生のいんねんを自覚することが大切である。 (2) 自分の身上にあらわされていることを見、あるいはまた世上の人々の姿を見て、前生のいんねんをさんげしたんのうの心を治めて通ることが大切である。 (3) この世に生まれかわってくるのも、親神の守護による、誰が誰の生まれ更わりであるかは親神のみが、すべてご存知である。お知らせいただいているところから、親戚または身近なところに生まれかわってくるものと悟らしていただくことができる。 (4) 人間は生まれ更わりによって、この世に永遠に生かしていただくことができる。ここに末代かけての信仰の有難さと喜びを味あわせていただくことができる。
子供に関するおさしづを検索すると、次のような点が指摘されている。 一、 親と子の関係 (1) 子供は先祖の魂の生まれ更わりである。親が子となり子が親となり、互いに恩の報じ合いをして通るのである。 山沢さよ姉は祖母に当たる梶本ひさ姉の生まれ更わり、永尾たつゑ姉は永尾家三代前の母の生まれ更わり、増野道興氏は祖父庄兵衛氏の生まれ更わりである。 なお前生いんねん果たしができていなければ、そのいんねんを今生に持ち越す。また親がいんねん切りの道を通れば子供はしあわせになる。親がたすけ一条の道を通らなければいんねんは切れない。 (2) 嗣子はいんねんによって結ばれる。よい子を持つも、よくない子を持つも、すべていんねんによる。 (3) 子供は先祖から受け継いだ理を享けて通るものである。ただ一代限りだと思ってはならぬ。理は末代である。 二、 子供とは (1) 子供は各自持って生まれた徳分を持つ。子供が幾人いても神が引き受ける。 (2) 子供は十五歳まではおやのいんねん、すなわち十四歳以下は親のいんねん、先祖代々のいんねんを担うものであり、十五歳以上は本人の心遣いによる。現在教会本部で戴くおまもりは、十四歳以下は子供おまもりを戴く、十五歳以上は大人のおまもりを戴く。 (3) 子供は宝である。仮に今は宝のように思えなくとも、将来かけがえのない宝である。 三、 子供の身上 (1) 子供の患いは一家中の患いである。 (2) 子供の身上は、親の心遣いの投影である。山沢ミキノ姉の上げ下し、永尾たつゑ姉や梶本ミチ姉の夜泣きは、親の心の投影であると言われる。 (3) 子供の身上より心を定めよ。子供の身上は精神定めの台である。小児深谷景三の身上障りを通し、河原町分教会の事情定めによって、甲賀・水口・湖東の分離昇格が打ち出された。山名分教会の諸井政一氏の身上によって後継者問題が再確認された。 (4) 親にとって子供は可愛いものである。わが子の身上を通し、理の親たるの心をしっかり定めるよう。 四、 子供のない場合 (1) 子供の授からないのは前生いんねんによる。与えられた境遇をたんのうして通ること。 (2) 子供があたわらないのは自分らに、そのあたえがないからであり、しっかり徳を積むよう。 (3) 道を通れば理の子供があたわる。心に思い残すことのないよう勇んで通ること。 \n\n (1) 人間は、この世に今まで幾度となく、生まれ更わり出更わりして来ているもので、前生のいんねんを自覚することが大切である。 (2) 自分の身上にあらわされていることを見、あるいはまた世上の人々の姿を見て、前生のいんねんをさんげしたんのうの心を治めて通ることが大切である。 (3) この世に生まれかわってくるのも、親神の守護による、誰が誰の生まれ更わりであるかは親神のみが、すべてご存知である。お知らせいただいているところから、親戚または身近なところに生まれかわってくるものと悟らしていただくことができる。 (4) 人間は生まれ更わりによって、この世に永遠に生かしていただくことができる。ここに末代かけての信仰の有難さと喜びを味あわせていただくことができる。