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教校新築に付四間に十八間教場二棟御許しの儀願

さあ/\尋ねる事情/\、何よの事も尋ねにゃ分からん。さあ/\子供仕込む所仕込む所、道の上の理、さあ/\まあ子供仕込む所、一時の処成るよう行くようにして置くがよい。どれだけこれだけ仕切った事は要らん。無理にして、あちらも弱りこちらも弱り、弱る事してはならん。そこで、狭い所でも大事無い/\。道の上の子供仕込む所、通常一つの理を持って居た分にゃならん。この趣意からどうでもこうでも成って来る。一時に運んではならん。怖わい恐ろしい道から出るか、働きから出るか。聞き分け。皆それ/\一つ心、子供一つの心、子供仕込む聞き分け。あちらも柱、こちらも柱無くばならん。だん/\芽吹く理無くばならん。子供仕込むだけ、十分の働きもあろう。

本日地均らしの願
さあ/\尋ねる処/\、今日はまあ大層々々なようなもの。なれど、ぼち/\すれば、大層やない/\。心の治め。一里の道も、急いて行っては、しんどいと言わにゃならん。十里の道でも、ぼち/\行けばその日に行ける。この理聞き分け。掛かりというは、もうざっとして置くのや/\。雨露に打たれにゃよい。この道の理皆治めにゃならん。こら狭いなあ/\という事は今にも出る。一時は狭い。道立てゝくれば、どんな所でも、こんな事くらい二つや三つの恐れる道やないで。これも聞かして置こう。
【説明】
(1) 新しい校舎(現天理中学校校舎の一部)は、この日から普請にかかり三十五年一月六日完成、翌年一月七日開校式が挙げられた。 (2) 子供を仕込む所を新築しようというが、当分の間は、なるよういくよう間に合うものでしておくがよい。どれだけのものをしなければならんという仕切ったことはいらん。無理なことをして、あちらこちらに影響して道の動きが弱るようなことをしてはならん。無い所でも差し支えない。  道の上の子供を仕込む所について、通常世間一般のような考えをもっていてはいけない。その心をもっているなら、どうでもこうでも成り立ってくる。今一時に新築しようとしてはいけない。  無理算段してやるか、世上の考え方から出発するか、お道の働き(丹精)から出発するか、聞き分けよ。皆もそれぞれ子供に対する心を一つに治めて、子供を仕込んでいかねばならない。あちらの子供も道の柱、こちらの子供も道の柱となるよう仕込み、だんだんと芽が吹いていく真実の理がなければならん。子供をしっかり仕込んだら、それだけ十分の働きをするようになるだろう。 (3) 校舎を新築するについて地均しにかかると言うが、今日の道の現状からすれば、なかなか大層に思うだろう。けれども、ぼちぼちかかっていくなら大層なことではない。皆が心を治めよ。一里の道も急いで行っては、えらいと言わなければならんが、十里の道でもぼちぼち行けば、その日のうちにも行き着ける。初めはざっとしたものにしておいたらよい。雨露さえしのげたらそれでよい。この道の順序の理を皆心に治めねばならん。 (4) 道が盛んになって来たら、こんな建物の二つや三つは恐れることはないようになる。 \n\n (1) 天理教校は明治三十三年四月一日、北分教会の信者詰所を仮校舎として開校、天理教校基金募集がなされていたが、会計は必ずしも良くなかった。 (2) 今一時のところは、無理をしないで成るようにしておくがよい。無理をしてあちこち弱るようなことになっても困る。 (3) 校舎の新築は今日の実状からすれば、大層なことと思われるが、急がずにぼちぼちかかるなら、決して大層ではない。皆の心の治め方が大切である。最初はざっとしたものにしておくことである。この道の順序を聞き分けねばならぬ。道が盛大になれば、こんな建物の二つや三つ恐れる道でない。
【摘要】
教育の問題では、一、教育施設についての問題と、二、個人の教育に関しての問題とに大別できる。 一、 教育施設についての問題については、本教の教育施設の嚆矢は明治三十三年四月一日に開校した天理教校であるが、おさしづには先に挙げたように、この天理教校の設置、資金募集、開校式、校舎新築などについての一連のおさしづがある。これによって学校設置、教育についての神意は、おおよそ次のように考えられる。 (1) 学校は一時応法の道として許そう。 (2) この道の仕事は、みなその理の成ってくる元がある。それは、すべて神の思惑から出たもので、神一条の順序の理によって、すべて成ってくる。神の思惑を悟り、人間思案に流れず、応法の道は応法の道として心し、あくまで神一条を忘れぬように。 (3) 皆寄り合って心を揃え、面白く楽しくやるように。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (4) 校舎は初めから大きいことは考えないように。初めはざっとした間に合わせのもので、雨露さえ凌げたらよい。小さいところから、ぼつぼつしていけば、そこに楽しみもある。 (5) 教育にあったては、できるだけ多く教理を聞かし、どの子供もこの子供も皆、道の柱となるように仕込むように。しっかり仕込んだら、それだけ働きのできる道になる。 二、 個人の教育に関しての問題については、そう多くのおさしづはないが、その中から要点を拾ってみると、次のように考えられる。 (1) 道の者が教育を受ける場合、どこの学校に行くかは、それぞれの思うところに任せる。 (2) 学問のあるものを重宝がる傾向があるが、お道では学問のある者もない者も同じことで、皆めいめいが道の理を積むことが大切である。道の上の仕事は、皆同じ理である。 (3) 道の者は何事も一般のことは、ほんの一通りできたらよいので深くはいらない。大切なのは道の仕込みを、しっかりすることである。 (4) 学問の道もしばらくはよい。道の者は、その短い期間を三倍にも値するように、精出して励むことが望ましい。 \n\n  本部の普請についての諭しは、それぞれの普請の規模、構造、用途が異なるので、それについて述べられた神意を一様にまとめて言うことはできにくい。しかし次の点は、一貫しているように思う。 (1) 今一時は皆、仮屋普請である。しかして道普請であり、切り無し普請であるということ。 (2) 親の普請を急ぐより、親心の上から大勢の子供たちの帰ってくるおやしきの拡張、信者詰所の普請を望まれていた。しかし、上田ナライト様の住まいや神殿普請のおさしづに見られるように、機が熟して、神意を達成するための普請は、どんなに財政が困窮した中でも、これをやり遂げるように、きびしく急き込まれている。しかして普請の心構えとして、次のように諭されている。 ① 道の順序を聞き分けることが大切である。つとめ場所が道の普請の掛かり初めであったが、最初は小さいものから出来上がって来た道である。この最初掛かりの精神で通れば、どんなこともできる。 ② つとめ場所は一坪から始まったのであるが、その普請を引き受けると言うたのは本席である。普請に当たって、皆その心になるように。 ③ 普請はまず、木を一本買うことから始まるのである。 ④ 旬をはずさないように。旬をはずせば、できることもできなくなる。 ⑤ 念の入ったことはいらん。木柄に望み好みをするよりも、大きな心で何でもという精神が大切。小さな心ではいずんでしまう。 ⑥ 急いでかかれば十分のことができない。前々から用意を整えておくことが大切。 ⑦ 案じ心を捨て、楽しみという心をもって、勇んでかかるように。勇んでかかれば神が十分働く。 ⑧ 皆心を合わせて、一つ心になることである。派を分けてはならん。 ⑨ 外面を飾るよりも、内面の充実が大切である。「中に綿を着ずして、外に綿を着ては通られん」と仰せられている。

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