おさしず検索


御供の件に付昨日東京へ出張の松村吉太郎より申し越されしに、内務省の局長の御話には金米糖は絶対に廃止せよとの御話である。若し出来ざる時は製造の方法に対し、腐敗せざるよう出来ざるものか、と言うに付、心得までに願

さあ/\尋ねる/\。尋ねる事というものは、さあ/\皆々これまで何も彼も知って居るやろ。何も知らん事して居るやない/\。どうもならん/\で暮れて了たる。なれど、道という道は、付け掛けた道やによって、何でも彼でも、幾年掛かっても付けにゃならん。ならん事から、これまでどういう事もこうしたら一時遁れるかと、いろ/\品変えて通りたる/\。世界から道理を付けて世界中この道から、一つ信者から一つ敵の中と、前々伝えたる/\。容易で日が経つものやない。どうでもこうでも陰から、天より理があるから通れる。そこでこうすればあの道どうなる。どうすればこうなると、こゝでこう言うて居れば通れる。この道というものは、幾年経っても付けにゃならん。成らん中から、天然という道あちらに一寸、こちらに一寸、道の固まり出け掛けたる。一時にどうしても出け難くい。そこ手遅れと言う。成っても成らいでも通らにゃならん道やで。一列思やんせにゃならん、と、早い理に諭したる。一寸通り難くい。一時こうと言うた処が、怖わいと言えば、負うて歩かにゃならん。負うて行けば負われる。負うと負われると違うで。負う力持ってくれにゃならん。これだけ伝えたいから、多くの人寄せにゃ書取というものは、その場切りのものである。ほんの当分のもの。これ真実の心定める事なら、世界に於て多くの人通す。通す理立つというは、天然自然と諭したる。又日々の処、さづけ一条書下げある。何を持って来い彼を持って来い、と言うてあるまい。親大切、家業第一、と諭したる。この理から聞き分けにゃならん。さあ/\たゞ一筆は何処まで行ても立ち切る。親孝心、又家業第一。これ何処へ行ても難は無い。さあどう今一時用いる。御供というは、成るだけ/\踏ん張ってみよ/\。又ならん/\にゃならん理がある。心に心配するようでは、道とは言えんで。何処まで道を聞いて来たか。これ不思議々々々というは道である。人間は分からん。始め掛けたる道、一寸立ち掛けたら、何も案じる事要らん。この道の掛かりは、先ず一代という、どうでもこうでも不自由難儀の道通らにゃならん。不自由の道通るは天然自然の道という。神の望む処である。

全国に十教区を置く事の願
さあ/\尋ねる処/\、そらどうとも言わん。まあそら修理肥の内である。修理肥は何処までもせにゃならん。蒔き流しでは、何も取れるものやない。修理肥というはせにゃならん。又人という、十名というはそら願通り許し置こう。中に又余程の理改めてせにゃならん。銘々勝手という理あるで。これを十分取り調べてくれにゃならん。

先日よしゑ身上から一同揃うて尋ね出よという事でありましたが、本日平野楢蔵、松村吉太郎留守でありますから如何でありましょうと申し上げ
さあ/\なあ、前々には尋ねる事情をこれ日を遅れたる。皆んな打ち揃うて諭せんならんから、皆分かりある。あちらこちら何よ諭した処が、さしづ筆に取って話は、とんとどうもならん。心だけという、心に働き、心にどれだけ言い聞かした処が、皆んな心から苦しみ通る理は、天然自然の道という。どうでもこうでも、艱難不自由通りてくれるは、一代の道の台と言う。

皆々揃うた上もう一度御尋ねに出ましたら宜しう御座りますか、と申し上げ
さあ/\もう一度/\、しっかりと/\。本部という、一人も不足の無いようにして、万事の処尋ねるようにするがよい。
【説明】
(1) 本教の独立達成のため、教義と共に組織の整備が急がれてきたが、ここで全国を十教区に分けて地方の教会を統括すると同時に、全体をぢばの理に帰一せしめることにしたわけである。これが現今の教務支庁制度の起こりである。(山本久二夫・中島秀夫著「おさしづ研究・下巻の一」、橋本武著「おさしづを拝す・下の一」参照)。 (2) 全国に教区を置くことは修理肥の上から必要なことであろう。種を蒔いても、そのまま放っておいては何の収穫も得られないように、道についた人をそのまま放っておいては十分に成人することはできないから、修理肥はどうでもしなければならないことである。 教区の責任をもつ十人の人を定めるということについては願い通り許そう。しかしめいめいは、わが身勝手な心を遣いがちであるから、よほど本人の心を改め、調べた上で決定するように。 \n\n (1) 御供のはじめはハッタイ粉であったが、明治十一年より金平糖に改められた。世間では、この金平糖にモルヒネが入っているらしいという噂をたてたので「みちのとも」誌上にも、その成分の分析を公告して存続に勤めていたが、一派独立請願に当たり、内務省より御供に関する弾圧的な指示があった。 (2) この道は幾年かかっても、どうでも付けねばならぬ道である。これまでも困難な事情が起きると、こうしたら、たとえ一時でも現状を切りぬけられるでなかろうかと、いろいろ手を替え品を替え通って来た。世間から言いがかりをつけに来ても、世界中にこの道を広めるため、信者に至るまで敵の中へ入りこむような決意で道を伝えて来た。容易でない日を送って来たが、それは全く陰から神が守護して来たればこそである。 (3) ちょっと通りにくいので、一時こうしたらどうかと言うても、もしお前たちが怖いと言えば、負うて歩いてやらねばならないが、負うてやれば、やれやれと負われてしまう。しかし負うと負われるでは、大きな違いである。この際は、この事情を負うて立つ力を持ってくれ。 (4) 今、問題になっている御供については、できるでけ踏ん張ってみよ。その上でいかんと言えば、また方法がある。ただ、それを心に持って心配するようでは、道の者の態度ではない。そんなことでは、どこまで道を聞いて来たかと言われも仕方がない。これは不思議々々というのが、神の道である。
【摘要】
本項では明治二十六年に定められた①教会等級制と、②教区の設置の問題を取り扱った。その要約は次のごとくである。 ①(1)談じ合って一つの理に治まるのが肝心であるから、そのように治めるよう。 (2)この道は何もないところから始めかけられた道である。その上にたって皆が談じ合い、心を揃えて決定することであるから、他がどうのこうのと心を捉われたり、また、ほかと相談したりする必要はない。 ②(1)修理肥は非常に大切なことで、どうでもしなければならないことである。その修理肥の上から全国に教区を置くことは必要である。 (2)教区の責任をもつものは、わが身勝手な心を使ってはいけない。これはぢばから許しを戴いて、その任に当たるのである。  (3)教区へ出向くものは、先々の話を聞くにも、また話を聞かすにも皆に満足を与えてやらねばならない。そして道の者は皆、兄弟中の兄弟であるという理を流さねばならない。 \n\n (1) 御供はハッタイ粉、金平糖、洗米と形は変わっても、親神の働きの理に変わりはない。大勢の者が御供を戴いて「不思議やなあ」という、その不思議な働きこそ親神の姿である。 (2) 御供は洗米を三摘み入れ、そのあとへ三粒入れて、紙に包んで出す。 (3) 御供を戴く心構えとしては、 ○元一つの理を心に治めて、順序を運んで下げて戴くように。 ○よく見分け、聞き分けて御供を渡すように。 ○御供を大切に扱うことが第一肝要。大切にすれば、するだけ理が働く。 ○心からたすかってもらいたい、という真実をこめて渡すように。 ○御供が効くのではない。それを受ける心の理が効くのである。 (4)金平糖御供を廃止するよう内務省から干渉を受けたが、それについては、およそ次のように述べられている。     ○どうもならんところ、無理なところも、道の理に心の理を合わせて通るように。踏ん張れるだけ踏ん張ってみよ。     ○この事情は、あたかも塵埃が流れるようなものであるが、その時に大切な御供の理を、一緒に流してしまってはならない。     ○干渉をおめ恐れることはない。一時しのぎに御供の形は変わるが、親神の働きの理に変わりはない。

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