おさしず検索
過日のおさしづより一人も残らず願い出よ、との事に付願
さあ/\/\だん/\これまでの処/\、長らくの身の処に、日々不自由々々々、不自由でもう半季近い。身の不自由ながらも勤め日々の事であった。皆残らず話せにゃならん/\と、どうもならん。あちらこちら事情どうもならなんだ/\。前々一つ、もうこれまでよかろうと思う中、未だ一人も不足ありてはならん。不足ありてはならんという理、聞き分けてくれにゃならん。これだけ人という心という理も集まりて、どんな日もあった。国々にどんな理もあった。これよりよく心一手一つという、これが第一理である。心の理と道の理と、しっかり合わせてくれにゃならん。世上にいかなる理、あちらこちら、どうなろうかこうなろうか知らんという日が来たら、どうもならん。そこで、聞き分けにゃならん。どういう事も聞き分けにゃならん。これからどんな事もこんな事も一条という。一条で行かにゃならん。道にあちらも添いこちらも添い、十分と思うがころりと間違うてある。間違いから間違いが出ける。この一つの理早く諭さにゃならんと思えど、どうもならん。どうなりこうなり心揃い、人揃い、これ一つ定めてくれ。何も飾りは一つも要らん。前々よりも諭したる。外の錦より心の錦、心の錦は神の望み。飾りは一つも要らん。又皆の中、十年祭は連れて通りた。又二十年祭、一つ心に運び掛けてある。そりゃ無けにゃならん。無けにゃならんが、どんな事してくれ、こんな事してくれとは、一つも言わん。これより一日の日も、どうして行こうか知らんという心募りてくれ。さあ皆んな一つの心定めてくれにゃならん。前々よりも諭したる。あちらも不足こちらも不足、不足々々では諭した処が、書取だけでは、そうか、と言うだけのもの。言葉聞きたなら、心定まるか定まらんか、一人々々の心にある。一人々々の心以ちて、道を伝うてくれにゃならん。どれだけ十分これだけ十分と思う心は間違うてある。よう聞き分け。もう着るもの無けにゃ、もう無うても構わん/\。美しい物着たいと思う心がころりと違う。一代というは、これ一つよう思やんせにゃならん。残念々々で暮れたる処を思えば、どんな事でも出来る。たゞ一日の遊山も、良い所へ行きた事無いで。出れば人に笑われる処より、出た事は無い。さあ皆その心なら、案じる事は無い。世界から力入れて来ても、真実教、真実の心あれば、抜いた剣も鞘となる/\。抜いた剣が鞘となるというは、真実神が受け取りたるから、心胆治まる。これ聞き分け。人に手伝うて貰わにゃならんようではいかん。手伝うという力持ってくれ。これが第一やで。これは掴みさがしたようであるけれど、これだけ早く聞かしとうてならん。
引き続いて
さあ/\これよう聞き分けにゃならんで。もうこれだけの道と言えば、大きよう思う。大きい道は怪我をする。細い道は怪我は無い。大き道で怪我はある。細い道は怪我は無い。細い道は怪我は無いというは、危ない/\という心を持ちて通るから怪我は無い。世界何の心掛けずして通れば、どんな怪我あるやら知れん。これだけこれだけ道付いてあるのに、こういう事では、と、心細いと思う。なか/\そうやない程に/\。
押して、おさしづ次第一同相談して居りますと願
さあ/\一つは答えにゃならん。さあ/\これだけ皆々、もう道のためにと思うやこそ、遠く道隔てゝ集まりた。道の理は容易やない/\。これからという、これから兄弟という。兄弟なら兄弟の心無くば兄弟とは言わん。心に取りては意見という。可愛こそ意見もする。これ結構やなと思えば、結構。これだけ艱難通りて居るのにと、不足らしい心ではならん。人の難儀心に掛け、いかな事も扶け合い/\、これだけ心に掛け、本部々々と言う。そらせにゃならん、なれど、我慢すれば、どんな事でも出来る。我慢は後々に応えて、心あぐさまにゃならん。何を持って来たさかいにどうする、という事は無い。心に結構という理を受け取るのや。結構は天のあたゑやで。
しばらくして
さあ/\もう一言/\、こゝまでほんに本部ぢば広なった/\と言えば、これよりどれだけの事やるやろうと思うが理。仮普請という/\、末代の普請は一寸には行かん。今年に建てゝ、来年毀っても構わん、というようなら、受け取る。大層の事で世上の迷いの台になっても、どうもならん。ほんの仮家にして、今日して明日に取り換えても惜い事はない、というようなら受け取る。そうすれば、直ぐに掛からにゃならんやろうと思うやろ。それは三年五年十年先でもよい。さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。これだけ聞きたら、どんな事も分かる。
押して、先々注意さして頂きますと申し上げ
さあ/\兄弟という理であろう。中にも兄弟。一列兄弟は言うまで。こうして道という、遠い所国所遠く所厭わず寄り合うた理は、生まれの兄弟も同じ事。何処其処はどう/\と言うようでは、どうもならん。一つの心に治め。そんなら、たゞ一口に互い扶け合い、扶け合いの中にも、先々尽した理を見分けにゃならん/\。救けに行って救からん事ある。これ聞き分け。道のためにどうなりたる、道のためにこうなりたるという。心と心の理を合わせるは兄弟の道。これだけ見てやらにゃならん、又見て貰わにゃならん。これだけ、しっかり/\。
しばらくして
さあ/\もう一言/\、どういう事も諭して置く。大抵々々どれだけの仮家々々、地所という、地所の処暫くじっくりして置くがよい。又旬が来たら、一人出来て来る。これだけ一寸諭して置く。
引き続いて
さあ/\これよう聞き分けにゃならんで。もうこれだけの道と言えば、大きよう思う。大きい道は怪我をする。細い道は怪我は無い。大き道で怪我はある。細い道は怪我は無い。細い道は怪我は無いというは、危ない/\という心を持ちて通るから怪我は無い。世界何の心掛けずして通れば、どんな怪我あるやら知れん。これだけこれだけ道付いてあるのに、こういう事では、と、心細いと思う。なか/\そうやない程に/\。
押して、おさしづ次第一同相談して居りますと願
さあ/\一つは答えにゃならん。さあ/\これだけ皆々、もう道のためにと思うやこそ、遠く道隔てゝ集まりた。道の理は容易やない/\。これからという、これから兄弟という。兄弟なら兄弟の心無くば兄弟とは言わん。心に取りては意見という。可愛こそ意見もする。これ結構やなと思えば、結構。これだけ艱難通りて居るのにと、不足らしい心ではならん。人の難儀心に掛け、いかな事も扶け合い/\、これだけ心に掛け、本部々々と言う。そらせにゃならん、なれど、我慢すれば、どんな事でも出来る。我慢は後々に応えて、心あぐさまにゃならん。何を持って来たさかいにどうする、という事は無い。心に結構という理を受け取るのや。結構は天のあたゑやで。
しばらくして
さあ/\もう一言/\、こゝまでほんに本部ぢば広なった/\と言えば、これよりどれだけの事やるやろうと思うが理。仮普請という/\、末代の普請は一寸には行かん。今年に建てゝ、来年毀っても構わん、というようなら、受け取る。大層の事で世上の迷いの台になっても、どうもならん。ほんの仮家にして、今日して明日に取り換えても惜い事はない、というようなら受け取る。そうすれば、直ぐに掛からにゃならんやろうと思うやろ。それは三年五年十年先でもよい。さあ頼もしい/\心供えば受け取る/\。泣く/\するようでは神が受け取れん。百万の物持って来るよりも、一厘の心受け取る。これだけ聞きたら、どんな事も分かる。
押して、先々注意さして頂きますと申し上げ
さあ/\兄弟という理であろう。中にも兄弟。一列兄弟は言うまで。こうして道という、遠い所国所遠く所厭わず寄り合うた理は、生まれの兄弟も同じ事。何処其処はどう/\と言うようでは、どうもならん。一つの心に治め。そんなら、たゞ一口に互い扶け合い、扶け合いの中にも、先々尽した理を見分けにゃならん/\。救けに行って救からん事ある。これ聞き分け。道のためにどうなりたる、道のためにこうなりたるという。心と心の理を合わせるは兄弟の道。これだけ見てやらにゃならん、又見て貰わにゃならん。これだけ、しっかり/\。
しばらくして
さあ/\もう一言/\、どういう事も諭して置く。大抵々々どれだけの仮家々々、地所という、地所の処暫くじっくりして置くがよい。又旬が来たら、一人出来て来る。これだけ一寸諭して置く。
【説明】
(1) 道を通る者にとっては、心の持ち方こそが大切なのであって、世間態を飾る様な心遣いは少しもいらない。このことは前々からも諭しておる通りで、外面的な飾りをするより、心に錦をつけることが大切である。この心の錦こそが神の望むところで、外面を飾る様な心遣いは一つもいらないのである。 ところで、いろいろのことはあったが、教祖の十年祭は神の守護によって連れて通った。そしてまた次は二十年祭ということになるわけで、それを目標に、お前たちも心をつくそうとしている。当然そうなければならないであろう。が、しかし神としては、年祭だからといって形の上でどうしてくれ、こうしてくれというようなことは何一つ言わない。そんなことよりも、これから年祭までの一日々々を、いかに通れば親の思いに添いきれるか、ということに心をくだいてもらいたい。ここで大切なことは、そのような心の定め方なのである。 (2) 神は何を持って来たからといって、その物を受け取るのではない。喜びの心で運んでくるその心を受け取るのである。その喜びの心こそ、天よりの与えを受けるにふさわしい心である。 (3) ここまで本部の屋敷も広くなったとなれば、お前たちは、どんな大きな普請が始まるのだろうかと思うであろう。しかし普請は仮のものである、とさしづしておく。末代の普請、本普請は、そう簡単にできるものではない。 今願い出ている普請にしても、例えば今年建てて、来年には取り払っても差し支えない、というような仮のものとするなら許しておこう。大層なことをして、世間の誤解を招くようでは何にもならないのである。だから、ほんの仮のものとして今日建てて、年祭の終わった明日には取り壊して惜しくない、というようなものなら許しておこう。 このように言えば、お前たちはすぐにでも普請にかからねばならんと思うであろう。しかし決してそうではないので、それは三年先、五年先、いや十年先でもかまわない。そのような形の上のことよりも、神から見て、よくそこまで心の成人をしてくれたなあ、と頼もしく思えるような心の治め方が大切なのである。神はそうした喜びの心を受け取るのである。たとえ形はできても、いやいやの心、不足不満の心でしたことであっては決して受け取れん。だから神は、不足不満の心で持ってくる百万の物よりも、喜びの心で運んでくる一厘の、その心を受け取るのである。ここまで聞いたら、道を通るについて何が大切か、すべてのことがわかるであろう。
(1) 道を通る者にとっては、心の持ち方こそが大切なのであって、世間態を飾る様な心遣いは少しもいらない。このことは前々からも諭しておる通りで、外面的な飾りをするより、心に錦をつけることが大切である。この心の錦こそが神の望むところで、外面を飾る様な心遣いは一つもいらないのである。 ところで、いろいろのことはあったが、教祖の十年祭は神の守護によって連れて通った。そしてまた次は二十年祭ということになるわけで、それを目標に、お前たちも心をつくそうとしている。当然そうなければならないであろう。が、しかし神としては、年祭だからといって形の上でどうしてくれ、こうしてくれというようなことは何一つ言わない。そんなことよりも、これから年祭までの一日々々を、いかに通れば親の思いに添いきれるか、ということに心をくだいてもらいたい。ここで大切なことは、そのような心の定め方なのである。 (2) 神は何を持って来たからといって、その物を受け取るのではない。喜びの心で運んでくるその心を受け取るのである。その喜びの心こそ、天よりの与えを受けるにふさわしい心である。 (3) ここまで本部の屋敷も広くなったとなれば、お前たちは、どんな大きな普請が始まるのだろうかと思うであろう。しかし普請は仮のものである、とさしづしておく。末代の普請、本普請は、そう簡単にできるものではない。 今願い出ている普請にしても、例えば今年建てて、来年には取り払っても差し支えない、というような仮のものとするなら許しておこう。大層なことをして、世間の誤解を招くようでは何にもならないのである。だから、ほんの仮のものとして今日建てて、年祭の終わった明日には取り壊して惜しくない、というようなものなら許しておこう。 このように言えば、お前たちはすぐにでも普請にかからねばならんと思うであろう。しかし決してそうではないので、それは三年先、五年先、いや十年先でもかまわない。そのような形の上のことよりも、神から見て、よくそこまで心の成人をしてくれたなあ、と頼もしく思えるような心の治め方が大切なのである。神はそうした喜びの心を受け取るのである。たとえ形はできても、いやいやの心、不足不満の心でしたことであっては決して受け取れん。だから神は、不足不満の心で持ってくる百万の物よりも、喜びの心で運んでくる一厘の、その心を受け取るのである。ここまで聞いたら、道を通るについて何が大切か、すべてのことがわかるであろう。
【摘要】
教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。
教祖の年祭についての思召しは、おさしづの随所に出ているので、ここに挙げたのは、そのほんの一部である。これらのおさしづによって、一貫してお諭しくだされている要点は、次の点にあると悟れる。 (1) 年祭を勤める根本の精神は、人間思案を捨て、神一条にたちきること。 (2) 年祭は単に年限が来たから勤めるというのではなく、道全体、また道につながる一人々々の成人の旬である。 (3) したがって年祭を勤めるについては、決して形の上にのみ心をとらわれるのではなく、神一条の心定めこそが肝要である。 (4) それには道の者一人々々が、しっかり教祖のひながたに帰り、その実践こそが日々の目標となる。 (5) それには日々に勇み心を持って、しっかり喜びの理をぢばに運ぶこと。