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湖東分教会長佐治登喜治良娘つたゑ二十一才身上願
さあ/\尋ねる事情/\、さあ身上さあ事情いかな事と尋ねる事情、さあ/\どうでもいかん/\。これ一つ事情を尋ねるからは、事情を諭そ。よく聞き分けにゃ分かり難ない。さあ子供の煩いは親の煩い同じ事、よう聞き分けにゃならんで。何で煩い何でこねなる。一寸の事なら何でも無い。まあ良かったと言う。なれど、長らえてどうでもいかんというは、どんな事も思う。よう聞き分け。何でなると更に思うやない。この一つ理聞き分けるなら、どんな順序も分かる。身上から付いた理もあれば、たゞ言葉で付いた理もある。身上から付いた理は、どんな事も遂げにゃならん、遂げさゝにゃならん。よう聞き分け。どんな事も世上の事見て取り直し、だん/\いろ/\ある。難しい事も、生らん年もある。どんな事も通り抜けてくれるよう。どんな怖わいなあという事もある。これも年限の内と思わにゃならん。よう聞き分け。案じて居ては切りは無い。大き心持って通れば、何でもない。どうして通ろや知らんというような事もある。何でも彼でも身上に掛かりて来れば、いかな事と思う。何のほこりと思う。ほこりは無い。又長く勤めて居る処にほっと身上に掛かれば、つい思う。一通り勤めは又々理、歳々理あれば年々の理もある。この心持ってくれるよう。身上一寸大層なれど、何の事も無い。年々歳々と言う。この心持ってくれば、又暫く/\、これ聞き分けてくれるよう。
養子貰って分家さしたらと思いますが、如何でありますかと願
さあ/\それはこれ年限という、もう年もなあという、思う心もあろ。皆んな心一つ/\分かる。何も急く事要らん/\。良い日持ってもう楽々なあ、これでよいなあ、この心無くばならん。この道年は何ぼになる、そら更に持ってはならん。早う楽しんで了うてはならん。長う持って、先々長く楽しみの心、この心持ってくれにゃならん。
養子貰って分家さしたらと思いますが、如何でありますかと願
さあ/\それはこれ年限という、もう年もなあという、思う心もあろ。皆んな心一つ/\分かる。何も急く事要らん/\。良い日持ってもう楽々なあ、これでよいなあ、この心無くばならん。この道年は何ぼになる、そら更に持ってはならん。早う楽しんで了うてはならん。長う持って、先々長く楽しみの心、この心持ってくれにゃならん。
【説明】
(1) 佐治つたゑ姉 湖東初代会長佐治登喜治良氏の長女。 養子を迎え分家をさせてはどうか、という話あり伺う。 (2) つたゑは、もう二十一歳になった。もう婚期の年齢であり、早く嫁入りさせねばと思う心もよくわかる。しかし何も急ぐことはいらない。日々結構に楽々と送らせていただいているのは、親神の守護によるのであり有難いことであると、与えられた立場を感謝して運ぶ心がなければならない。この道の信仰では年齢が何歳になったから、というような心は更々持つ必要はない。先々長く楽しみの心をもってくれねばならぬ。 養子をもらいうことは、お許しにならなかった。
(1) 佐治つたゑ姉 湖東初代会長佐治登喜治良氏の長女。 養子を迎え分家をさせてはどうか、という話あり伺う。 (2) つたゑは、もう二十一歳になった。もう婚期の年齢であり、早く嫁入りさせねばと思う心もよくわかる。しかし何も急ぐことはいらない。日々結構に楽々と送らせていただいているのは、親神の守護によるのであり有難いことであると、与えられた立場を感謝して運ぶ心がなければならない。この道の信仰では年齢が何歳になったから、というような心は更々持つ必要はない。先々長く楽しみの心をもってくれねばならぬ。 養子をもらいうことは、お許しにならなかった。
【摘要】
教会ならびに一般家庭の後継者の問題は、男子の嫡子がいる場合は継承について、さほど問題となることはない。――もっとも事情によっては嫡男がいても廃嫡(嫡子としての身分を廃止すること。ただし現在の民法にはない)した場合は、やはり家庭事情として問題になる。しかし、それはそう多い出来事ではない。 ところが嫡男がいない場合は深刻な悩みである。娘に婿養子を迎える、あるいは実子がいない場合は養子(男でも女でも)を迎えることになる。おさしづには、いろいろの伺いがある。それを整理すると次のような場合がある。 一、 娘(実子)に婿養子を迎える場合。 二、 実子がないので、他家より養子(養女のこともある)を迎える、それも幼少から迎える場合と、成人してから迎える場合とがある。 三、 他家へ養子に出す場合。 四、 その他。 しかしおさしづの神意をうかがうと、実子がある場合と、ない場合の違いはほとんどない。ここではおさしづに説かれている要旨を中心に、考察を進めてみることにする。 (1) 養子を迎えるのは、理と理を寄せ合うのである。実子のない場合も同じで、理を結ぶのである。すなわち、これは深い親神のお計らいによるものである。 (2) 親子の結びつきは前記したように、いんねんによるものであり、養子(養女も)を迎えるに当たって、将来末代の心、生涯変わらぬ心、元一日の心をもって迎えること。 (3) 心と心が結ばれることが大切である。二人の心、双方の心、親々の心、それぞれが結ばれ、治まることが肝心である。 (4) 人おのおのいんねんが異なる。養子を迎えるいんねんの人もあれば、嫁に出すいんねん、嫁に行くいんねんの人もある。何よりもいんねんの自覚が大切である。一方、感謝とたんのうの心がなければならぬ。 (5) 幼少の者を養子に迎えるに当たって、将来を楽しむことである。「あちらにあるもこちらにあるも同じ理」「皆暮らすも同じ理」である。ゆえに心配はいらぬと言われている。 (6) 他家へ養子に出す場合も迎える場合も、その心構えがなければならぬ。あたえがなければならない。 (7) 別家を立てる場合、心の休まるよう運べと言われ、事情に応じて善処することを指示されている。 おさしづには一例として、笠岡の上原ふさ姉に川合家を立てさせたい、との伺いがある。この場合「主の心にその心添わすが精神」と言われ、主人の心に添って処置せよとさしづされている。 (8) 嫡男がいながら、ある事情のために、あとを継ぐことができぬ場合、後継者をどうするかということは非常に難しい問題である。この場合事情により善処するように、と言われる。 おさしづでは、その一例として、敷島の上村氏の長男庄作氏を後継者とするか、と伺った。すると、養子を迎えようにも迎えにくい。可哀想な者であるから「優しい処以て治めるよう」と、親心あふるる処置を指示されている。
教会ならびに一般家庭の後継者の問題は、男子の嫡子がいる場合は継承について、さほど問題となることはない。――もっとも事情によっては嫡男がいても廃嫡(嫡子としての身分を廃止すること。ただし現在の民法にはない)した場合は、やはり家庭事情として問題になる。しかし、それはそう多い出来事ではない。 ところが嫡男がいない場合は深刻な悩みである。娘に婿養子を迎える、あるいは実子がいない場合は養子(男でも女でも)を迎えることになる。おさしづには、いろいろの伺いがある。それを整理すると次のような場合がある。 一、 娘(実子)に婿養子を迎える場合。 二、 実子がないので、他家より養子(養女のこともある)を迎える、それも幼少から迎える場合と、成人してから迎える場合とがある。 三、 他家へ養子に出す場合。 四、 その他。 しかしおさしづの神意をうかがうと、実子がある場合と、ない場合の違いはほとんどない。ここではおさしづに説かれている要旨を中心に、考察を進めてみることにする。 (1) 養子を迎えるのは、理と理を寄せ合うのである。実子のない場合も同じで、理を結ぶのである。すなわち、これは深い親神のお計らいによるものである。 (2) 親子の結びつきは前記したように、いんねんによるものであり、養子(養女も)を迎えるに当たって、将来末代の心、生涯変わらぬ心、元一日の心をもって迎えること。 (3) 心と心が結ばれることが大切である。二人の心、双方の心、親々の心、それぞれが結ばれ、治まることが肝心である。 (4) 人おのおのいんねんが異なる。養子を迎えるいんねんの人もあれば、嫁に出すいんねん、嫁に行くいんねんの人もある。何よりもいんねんの自覚が大切である。一方、感謝とたんのうの心がなければならぬ。 (5) 幼少の者を養子に迎えるに当たって、将来を楽しむことである。「あちらにあるもこちらにあるも同じ理」「皆暮らすも同じ理」である。ゆえに心配はいらぬと言われている。 (6) 他家へ養子に出す場合も迎える場合も、その心構えがなければならぬ。あたえがなければならない。 (7) 別家を立てる場合、心の休まるよう運べと言われ、事情に応じて善処することを指示されている。 おさしづには一例として、笠岡の上原ふさ姉に川合家を立てさせたい、との伺いがある。この場合「主の心にその心添わすが精神」と言われ、主人の心に添って処置せよとさしづされている。 (8) 嫡男がいながら、ある事情のために、あとを継ぐことができぬ場合、後継者をどうするかということは非常に難しい問題である。この場合事情により善処するように、と言われる。 おさしづでは、その一例として、敷島の上村氏の長男庄作氏を後継者とするか、と伺った。すると、養子を迎えようにも迎えにくい。可哀想な者であるから「優しい処以て治めるよう」と、親心あふるる処置を指示されている。