おさしず検索
平野楢蔵先日のおさしづの中角目の処普請に付願
さあ/\尋ねる事情/\、さあいかなる事情尋ねる。又一つ理も尋ねにゃ分からん分からん。何よの事思う処、又身上に掛かる。事情尋ねにゃ分からん/\。尋ねるから一つ諭するによって、皆々心によく分かるであろう。さあ心の理から何よの事も一つ理。いかなる事も聞き分けにゃ分からん。成程と言えば身上も治まる。よう聞き分け。さあ/\まあこれまでの処何でもと思う処十分理、他にいかなる処も届いて居る。又一つ理ある。前々事情諭し置いたる事情、生まれ児小児一つ心に成れ。生まれ児の心には何も欲しい物は無い。生まれ三才、又ちょと一つ心分かろうまい。さあ/\生まれ児は持たせば持ち、持たさにゃ持たん。この理しっかり聞き分け。何よの事も、道というものは通りよいようで通り難くい。通りよいようにすれば通れる。どういうものである。通りよいよう一つ理諭す。さあ/\生まれ児一つ理諭す。通りよいよう一つ理諭す。さあ/\生まれ児一つ理諭するによって、よく聞き分けにゃ分からん。何かの処飾り、内の飾りはすっきり要らん。道の飾り心の飾り理の飾りは、どうでもせにゃならん。破れ着物着て働け。どうこう何よの処の飾りは一つも要らん。生まれ三才と言うであろう。又一つ理もこれから聞き分けてくれ。これから一つ何よの事も可愛から一つ理諭するのやで。破れ着物を着て、ほんに計り難ないと思うやない。しっかり心を治めてくれ。破れ着物で、これまでのような目に見ての飾りはすっきり要らん。年限を切って置く。三才になれば言葉も分かる。こうしてくれどうしてくれ、さあこうであると、この理めん/\の心に治め。何程楽しんでも、一時に楽しんでは暫くのものや。何にもならんで/\。さあ/\もう飾り/\目に見て楽しむ飾り暫く/\。そんならこうして行こうどうして行こう、何よの処も、事情すっきり聞き分けてくれ。
押して、生まれ児と仰せ下さるは中和、島ケ原の処も委せるものでありますか
さあ/\これよう聞き分けにゃ分からんで。さあ/\飾り/\一つ理、暫くじっと治め/\。他に何よの事暫くの処じっと治め。綺麗な所目に見て楽しむ所は要らん。ごむさい所ばかりやで/\。これから/\三年という日を切って置く。
押して、役員の処皆綿服に改め一意専心に部下の方にも整理を着ける事
さあ/\これから/\心に一つ理持ってくれるよう。こうという答通りの理外さぬよう。春になればどう秋になればこう、この心すっきり要らん。草の中でもごもくの中でも構わん、と、どんと一つ心を定め。世界には綺麗な花もある。綺麗な所もある。一つの心を立て替え。ころりと一つ理を立て替え。さあ/\これからであるぞ/\。
又押して、東京の方へ治め方行く事いかゞせしものにや
尋ねる処/\、心に掛かる処は放って置けん/\。身上の一つ理尋ねる/\。これでならなあと思う。行て成程々々言えば、これだけ/\。ちょいと諭し置こう。
押して、生まれ児と仰せ下さるは中和、島ケ原の処も委せるものでありますか
さあ/\これよう聞き分けにゃ分からんで。さあ/\飾り/\一つ理、暫くじっと治め/\。他に何よの事暫くの処じっと治め。綺麗な所目に見て楽しむ所は要らん。ごむさい所ばかりやで/\。これから/\三年という日を切って置く。
押して、役員の処皆綿服に改め一意専心に部下の方にも整理を着ける事
さあ/\これから/\心に一つ理持ってくれるよう。こうという答通りの理外さぬよう。春になればどう秋になればこう、この心すっきり要らん。草の中でもごもくの中でも構わん、と、どんと一つ心を定め。世界には綺麗な花もある。綺麗な所もある。一つの心を立て替え。ころりと一つ理を立て替え。さあ/\これからであるぞ/\。
又押して、東京の方へ治め方行く事いかゞせしものにや
尋ねる処/\、心に掛かる処は放って置けん/\。身上の一つ理尋ねる/\。これでならなあと思う。行て成程々々言えば、これだけ/\。ちょいと諭し置こう。
【説明】
(1~3)お道を通るのは、通りやすいように見えるが通りにくい。しかし、通りやすいようにすれば通れる。それには生まれ児のような気持ちを持つことである。すなわち身の飾りはいらない。道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが。端的に言うと、破れ着物を着て働け、ということである。 (4)しかし、いつまでもと言うのではない。子供も三つになれば言葉がわかるのだから、そのつもりをしていたらよい。
(1~3)お道を通るのは、通りやすいように見えるが通りにくい。しかし、通りやすいようにすれば通れる。それには生まれ児のような気持ちを持つことである。すなわち身の飾りはいらない。道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが。端的に言うと、破れ着物を着て働け、ということである。 (4)しかし、いつまでもと言うのではない。子供も三つになれば言葉がわかるのだから、そのつもりをしていたらよい。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。 とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。 まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。 基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。 そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。 しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。 教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。 役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。 道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。 かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。 日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。 なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。 信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。 満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。 世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。 教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。 人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。 とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。 まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。 基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。 そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。 しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。 教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。 役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。 道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。 かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。 日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。 なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。 信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。 満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。 世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。 教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。 人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。