おさしず検索
本部の会計と学校の会計と一つにと申し上げ
何も誰に大層掛けるのやない。皆喜んでするのや。それに、どうであろうこうであろうと、余計にして居るのや。それだけしっかりと皆々に頼んで置くで。
さあ/\すっきり心配の無いようにしてやろう。心配や難儀や苦労、神が始めるか。これから一つ理取ってみよ。何処に不足あるか。そんな事するから、心配や難儀拵える。そこで、よう思やんしてみよ。人をえらい目に合わする神が有るか無いか。人間でもそんな者ありゃしょまい。これすっきり改めてくれ。改めさえすれば、どんな事も案じる事要らん程に。皆々間違うから、皆間違いが出来るのや。そこで、これなあと思うた。このぢばに、世界から鏡やしきと言うて、遠くから成程と寄って来る処、察してみよ。それに、どうしょうこうしょうと取り違いあるから、やしきの中に取り違い出来る。これさえ成程というようにすれば、結構なものであろう。これですっきりしたか/\。
しんどかったな。これでもう楽や。よい。
さあ/\すっきり心配の無いようにしてやろう。心配や難儀や苦労、神が始めるか。これから一つ理取ってみよ。何処に不足あるか。そんな事するから、心配や難儀拵える。そこで、よう思やんしてみよ。人をえらい目に合わする神が有るか無いか。人間でもそんな者ありゃしょまい。これすっきり改めてくれ。改めさえすれば、どんな事も案じる事要らん程に。皆々間違うから、皆間違いが出来るのや。そこで、これなあと思うた。このぢばに、世界から鏡やしきと言うて、遠くから成程と寄って来る処、察してみよ。それに、どうしょうこうしょうと取り違いあるから、やしきの中に取り違い出来る。これさえ成程というようにすれば、結構なものであろう。これですっきりしたか/\。
しんどかったな。これでもう楽や。よい。
【説明】
(1) 学校は世間どこにでも、たくさんある。この教校を、その世界並みの通りにせねばならんと、人間思案の情に流れてきた、情に流れていては、自ら潰してしまうのも同じことである。 (2) これから、よく精神の思惑の理を悟りとってみよ。どこに不足するところがあるか。そんな人間思案で世間一般の情に流れるから、心配や難儀をこしらえることになるのである。 (3) 今までのような考え方を、すっきり改めさえすれば、どんなことも案じることはいらない。皆親神の思惑を取り違えるから、間違いができてくるのである。
(1) 学校は世間どこにでも、たくさんある。この教校を、その世界並みの通りにせねばならんと、人間思案の情に流れてきた、情に流れていては、自ら潰してしまうのも同じことである。 (2) これから、よく精神の思惑の理を悟りとってみよ。どこに不足するところがあるか。そんな人間思案で世間一般の情に流れるから、心配や難儀をこしらえることになるのである。 (3) 今までのような考え方を、すっきり改めさえすれば、どんなことも案じることはいらない。皆親神の思惑を取り違えるから、間違いができてくるのである。
【摘要】
教育の問題では、一、教育施設についての問題と、二、個人の教育に関しての問題とに大別できる。 一、 教育施設についての問題については、本教の教育施設の嚆矢は明治三十三年四月一日に開校した天理教校であるが、おさしづには先に挙げたように、この天理教校の設置、資金募集、開校式、校舎新築などについての一連のおさしづがある。これによって学校設置、教育についての神意は、おおよそ次のように考えられる。 (1) 学校は一時応法の道として許そう。 (2) この道の仕事は、みなその理の成ってくる元がある。それは、すべて神の思惑から出たもので、神一条の順序の理によって、すべて成ってくる。神の思惑を悟り、人間思案に流れず、応法の道は応法の道として心し、あくまで神一条を忘れぬように。 (3) 皆寄り合って心を揃え、面白く楽しくやるように。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (4) 校舎は初めから大きいことは考えないように。初めはざっとした間に合わせのもので、雨露さえ凌げたらよい。小さいところから、ぼつぼつしていけば、そこに楽しみもある。 (5) 教育にあったては、できるだけ多く教理を聞かし、どの子供もこの子供も皆、道の柱となるように仕込むように。しっかり仕込んだら、それだけ働きのできる道になる。 二、 個人の教育に関しての問題については、そう多くのおさしづはないが、その中から要点を拾ってみると、次のように考えられる。 (1) 道の者が教育を受ける場合、どこの学校に行くかは、それぞれの思うところに任せる。 (2) 学問のあるものを重宝がる傾向があるが、お道では学問のある者もない者も同じことで、皆めいめいが道の理を積むことが大切である。道の上の仕事は、皆同じ理である。 (3) 道の者は何事も一般のことは、ほんの一通りできたらよいので深くはいらない。大切なのは道の仕込みを、しっかりすることである。 (4) 学問の道もしばらくはよい。道の者は、その短い期間を三倍にも値するように、精出して励むことが望ましい。
教育の問題では、一、教育施設についての問題と、二、個人の教育に関しての問題とに大別できる。 一、 教育施設についての問題については、本教の教育施設の嚆矢は明治三十三年四月一日に開校した天理教校であるが、おさしづには先に挙げたように、この天理教校の設置、資金募集、開校式、校舎新築などについての一連のおさしづがある。これによって学校設置、教育についての神意は、おおよそ次のように考えられる。 (1) 学校は一時応法の道として許そう。 (2) この道の仕事は、みなその理の成ってくる元がある。それは、すべて神の思惑から出たもので、神一条の順序の理によって、すべて成ってくる。神の思惑を悟り、人間思案に流れず、応法の道は応法の道として心し、あくまで神一条を忘れぬように。 (3) 皆寄り合って心を揃え、面白く楽しくやるように。皆喜んでするなら、どんなことも日々神が連れて通る。 (4) 校舎は初めから大きいことは考えないように。初めはざっとした間に合わせのもので、雨露さえ凌げたらよい。小さいところから、ぼつぼつしていけば、そこに楽しみもある。 (5) 教育にあったては、できるだけ多く教理を聞かし、どの子供もこの子供も皆、道の柱となるように仕込むように。しっかり仕込んだら、それだけ働きのできる道になる。 二、 個人の教育に関しての問題については、そう多くのおさしづはないが、その中から要点を拾ってみると、次のように考えられる。 (1) 道の者が教育を受ける場合、どこの学校に行くかは、それぞれの思うところに任せる。 (2) 学問のあるものを重宝がる傾向があるが、お道では学問のある者もない者も同じことで、皆めいめいが道の理を積むことが大切である。道の上の仕事は、皆同じ理である。 (3) 道の者は何事も一般のことは、ほんの一通りできたらよいので深くはいらない。大切なのは道の仕込みを、しっかりすることである。 (4) 学問の道もしばらくはよい。道の者は、その短い期間を三倍にも値するように、精出して励むことが望ましい。