おさしず検索
内々姉弟一統前おさしづより理の取違いの処だん/\さんげ致し、この度の親神様の御自由を見せて頂き恐れ入り、心身に取りきわめ、今後本席へは孝心の道を供え、安心して頂きます、又姉まさゑは今朝より少々身に患いを受けて居りますから、尚々出来る限りのさんげ致します、又平野楢蔵にもだん/\御諭貰い居ります事で、と政甚より申し上げるや直ちに
さあ/\これまでの処皆取違い/\、取違いがころっと心に治まりて、成程と治まれば、身の処何よの事も許してやろう。なれど、もう一度という理許すに許されんによって、これをしっかり。そうして三軒あちらの物でもなし、こちらの物でもなし、誰の物でもなし、皆仲好く中の者の理の物である。これも誰の物彼の物じっとして居る者の物、少ない者大きい者、大きい者は少ない者に持って行ってやれ。これが神の道。これがろっくであろう。理によって不自由せにゃならん。珍しい道や。世界の鏡に改めて了え。
さあ/\何処から何処まで、三軒の理知らん者ありゃせん。三軒の理さえ心に治まりたなら、道は一条。これよう心に治めてくれ。
しばらくして
さあ/\自由々々、自由して見せる。自由というはどういう事、長らえて身の処、今日々々万々どうであろう。一つ/\尋ねる処、安心さしたるなれど、こうと伝えたる事話通り伝え、理というものは、これ忘れんようせにゃならん/\。何度の理を、押して治めさして置くで。
さあ/\何処から何処まで、三軒の理知らん者ありゃせん。三軒の理さえ心に治まりたなら、道は一条。これよう心に治めてくれ。
しばらくして
さあ/\自由々々、自由して見せる。自由というはどういう事、長らえて身の処、今日々々万々どうであろう。一つ/\尋ねる処、安心さしたるなれど、こうと伝えたる事話通り伝え、理というものは、これ忘れんようせにゃならん/\。何度の理を、押して治めさして置くで。
【説明】
(1~2)前掲おさしづと同様に一連の中のものであるが、道の理を聞き分けた兄弟の間柄の在り方につき諭された一つのおさしづとも拝される。
(1~2)前掲おさしづと同様に一連の中のものであるが、道の理を聞き分けた兄弟の間柄の在り方につき諭された一つのおさしづとも拝される。
【摘要】
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。