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辻由松妻アサヱ三十三才身上願
さあ/\尋ねる身上の一条、事情尋ねる。いかな事であろうと思う処、よう聞き分けにゃ分かり難ない。皆んな一つ事情は同じ事情、内々一つ事情、又、続いて一つ事情、事情よう聞き分け/\。親という一つ事情、又、後々一つ事情、この中よう聞き分けにゃならん。どういうものである。内々の処、皆心という理にある、心という理にある。道という、皆持ち寄り事情、世界々々だん/\の理、理を聞き分け。どれだけどうしょ、どれだけこうしょ思たて、そらどうもならん。何程思たて、成るようにはっちゃ成らん。身上からよう思やんせえ。よう聞き分け。先々より同じ理でありて、余儀なく理以て一つ事情、これから事情聞き分け。身上から一つ願したら、こういうさしづありたと/\。治まらにゃどうもならん。皆、心という理寄りて寄る/\の理、添う/\の理、よう聞き分け。この諭は悟りは無い。よう聞き分け。身上あって楽しみ、身上続いて楽しみ。身上事情ありて、何程積み重ねた処がどうもなろまい。影も見られんようになりて、何の楽しみも無い。皆んな寄り合うて暮らす事情は、楽しみの台と言う。身上一時どうではない。なれど大層、この事情諭して、内々もこの理に基づくがよかろ。
【説明】
(1~3)これまでの一つ一つの事情、ふしからよく理を聞き分けて、家族の者皆それぞれ持ち寄りの心の理をもっているが、しかしだんだんに理を聞き分けることが大切であり、その上に立って日々めいめいの心を寄せ合うのが肝要である。また、そのようにして家庭内皆寄り合って暮らすことが楽しみのもとになる。
(1~3)これまでの一つ一つの事情、ふしからよく理を聞き分けて、家族の者皆それぞれ持ち寄りの心の理をもっているが、しかしだんだんに理を聞き分けることが大切であり、その上に立って日々めいめいの心を寄せ合うのが肝要である。また、そのようにして家庭内皆寄り合って暮らすことが楽しみのもとになる。
【摘要】
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。
おさしづにおいて、親族・家族ないし家庭ということにつき諭されている論点は、大別して二つの言い現わしをもってなされていると拝される。その一つは、“道に親族云々の理はない”あるいは“なんぼ親子夫婦兄弟でも云々”等の否定的な言葉をもって指摘されている側面であり、他は、“夫婦はみないんねん云々”あるいはまた“親となり子となるは、いんねん云々”等の肯定的言葉をもって指摘されている側面である。縮めて言うと親族・家族という同一の主題が、一見すると一つには否定的に、また他面では肯定的にも諭されているということである。これは一体どのように解釈されることによって理解の首尾を得ることができるかとの疑念を抱かすが、しかし熟読すると、その二つの表出は互いに他を排除し合う性質のものではないことが理解されるはずである。 今上のような点をも考慮におき、なお、その他掲出おさしづの全体にうかがえるところを箇条的に要約すると以下のごとく申しえると思う。 (1) 人間は神の子供というと仰せられるごとく、一名一人それぞれ心一つの自由を許されて親神に結ばれ、かつ守護を受けて存在する。それは人間の常識からする夫婦・親子・兄弟の間柄という、きわめて近縁の間柄と思われる事情以上に、きわめて基本的な事情である。人間相互の間柄としての夫婦・親子・兄弟の結ばれをもってしても、いわば左右できない肝要にして根本の事情である。 (2) かかる中にあって夫婦・親子・兄弟という家族・親族の間柄に結ばれているのは、いずれも、それぞれいんねんの理によっている。親神の守護をいただき、特に近き縁をもって寄せられている間柄である。 (3) したがって、その間柄に見せられることについて、お互いは、それぞれわが身に近きこととして、否われ自身の事情として受け止め得て思案し、かつ丹精をすることが肝要である。 (4) しかも、そのように丹精するということは、かかる間柄の者、家族ないし親族縁者のゆえをもって特別視するということではないのであって、既成の血縁に伴う人間思案ないし人間の義理をもってする対処は、事態にふさわしい在り方ではない。むしろ親神の守護をもって、かかる身近き間柄に寄せられた者として、より一層その者が神一条の理を聞き分け、かつ理の丹精に励むように配慮をしてやることこそ肝要な心得となる。