おさしず検索
桝井伊三郎手伝はな身上願
さあ/\尋ねる事情/\、事情にもだん/\一つ/\理ある。尋ねば一つさしづしよう。一年と思えば一年、二年と思えば二年、いつ/\同じ一つ心、同じ一つ道理、この理からさしづしよう。聞き分け。一年の内は一年同じ順序、一つ理中に身上とんとどうもならん。よう聞き分け。内々一つ事情、入り人一つ事情、この事情何で。この事情よう聞き分けばどんな者も分かる。このさしづ、この道たすけが台。ならん者が救けるが台。雇い人、身上不足出る。ならんと思う。なか/\そうやない。入り人内々一年治まる理、この順序聞き分け。万事理に留まる。一軒の理やない。又諭す理にもなる。入り人入れて、内々何人家内何人ある。同じ理。入り人一つ間に合わんという理は無い/\。内々澄めば、他人一つ鮮やか。この事情日々諭し事情になる。こら珍しいさしづ、よう聞き分け。ほんに結構。世上はなか/\そうやない。きついもの/\。この理聞き分け。この元という、一つ知らし置く。この順序取れば、内々事情にもなる、又道の順序にもなる。これよう聞き分け。
【説明】
(1~2)家庭内の事情、入り人・手伝い人の身上という事情をお見せいただいたが、この際よく聞き分けることが大切。もともと親神によるこの道の理はたすけ一条にあり、その上からすれば、ならん者をたすけ上げていくことが台となるとこなのである。してみれば今の入り人・雇い人の身上についても、本人自身も、また内々の者も治まる理の次第を聞き分けることが大切である。すなわち一個の家庭にあって入り人・雇い人を含めて何人の者がいても、皆“同じ理”(親神の子供という点で同じ理、すなわち一れつ兄弟の理)で、入り人・雇い人を単に間に合う間に合わんということで見るべきではない。家々も皆道の理によって心澄むことが大切で、そうあれば、その者の身上も鮮やか守護をお見せいただけるのである。 かかる理の聞き分けは啻に家庭内の治まりだけでなく、また更に大にしては、道そのものの治まりにも連なる大切なことであるから、このことをよく聞き分けておくよう。
(1~2)家庭内の事情、入り人・手伝い人の身上という事情をお見せいただいたが、この際よく聞き分けることが大切。もともと親神によるこの道の理はたすけ一条にあり、その上からすれば、ならん者をたすけ上げていくことが台となるとこなのである。してみれば今の入り人・雇い人の身上についても、本人自身も、また内々の者も治まる理の次第を聞き分けることが大切である。すなわち一個の家庭にあって入り人・雇い人を含めて何人の者がいても、皆“同じ理”(親神の子供という点で同じ理、すなわち一れつ兄弟の理)で、入り人・雇い人を単に間に合う間に合わんということで見るべきではない。家々も皆道の理によって心澄むことが大切で、そうあれば、その者の身上も鮮やか守護をお見せいただけるのである。 かかる理の聞き分けは啻に家庭内の治まりだけでなく、また更に大にしては、道そのものの治まりにも連なる大切なことであるから、このことをよく聞き分けておくよう。
【摘要】
ここに雇用について見せていただくのは、いわゆる雇用の問題一般ではない。見出しの個所に明らかなように、家庭上の事柄にかかわる一つとして雇用の謂である。おさしづ割り書きでは、こうした事柄を指す者として“雇い人”“手伝い”“乳母”“子守”等の語をもって現われているのが大部分であるが、そこにうかがえるところを要約させていただくと、およそ次のごとく言えるかと思う。 (1) 手伝いの人を入れねばならぬほどに家の中が忙しくとも、不足の心をもってしてはいかんので、親神の守護の理に、よく心を致したたんのうの喜びを治めていることが、まず大切である。 (2) 単に手だすけになる、家事がたすかるとの思いではいけない。また、その人が単に間に合うとか間に合わんということで遇すべきものではない。その人を大切と思い、慈しみ、可愛がり、育てるという心が大切である。 (3) 手伝いの人が何度も出入りをして変わってもらわんならんとか、また、その人に身上・事情の徴をみせていただくなどについては、家の中の者も、よく理の治まりをつけてかかる心得が大切である。 (4) すなわちいんねんの理も聞き分けて心治まる、また治めてやる在り方・配慮をしなくてはならない。 (5) なお家庭の中に雇い人を受け入れるについての基礎的な心得としては、“皆同じ理”を心に治めていることが大切である。すなわち来てもらう側の人々も、来てくれる側のその人も、もともと親神の子供としては同じ理・一れつ兄弟の間柄にあるという理を、心に治めていることが大切なのである。
ここに雇用について見せていただくのは、いわゆる雇用の問題一般ではない。見出しの個所に明らかなように、家庭上の事柄にかかわる一つとして雇用の謂である。おさしづ割り書きでは、こうした事柄を指す者として“雇い人”“手伝い”“乳母”“子守”等の語をもって現われているのが大部分であるが、そこにうかがえるところを要約させていただくと、およそ次のごとく言えるかと思う。 (1) 手伝いの人を入れねばならぬほどに家の中が忙しくとも、不足の心をもってしてはいかんので、親神の守護の理に、よく心を致したたんのうの喜びを治めていることが、まず大切である。 (2) 単に手だすけになる、家事がたすかるとの思いではいけない。また、その人が単に間に合うとか間に合わんということで遇すべきものではない。その人を大切と思い、慈しみ、可愛がり、育てるという心が大切である。 (3) 手伝いの人が何度も出入りをして変わってもらわんならんとか、また、その人に身上・事情の徴をみせていただくなどについては、家の中の者も、よく理の治まりをつけてかかる心得が大切である。 (4) すなわちいんねんの理も聞き分けて心治まる、また治めてやる在り方・配慮をしなくてはならない。 (5) なお家庭の中に雇い人を受け入れるについての基礎的な心得としては、“皆同じ理”を心に治めていることが大切である。すなわち来てもらう側の人々も、来てくれる側のその人も、もともと親神の子供としては同じ理・一れつ兄弟の間柄にあるという理を、心に治めていることが大切なのである。