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南紀支教会長下村賢三郎五十五才身上願

さあ/\尋ねる事情/\、さあ身上に心得ん。心得んから順序以て理を尋ねる。尋ねるからは一つ順序さしづに及ぶ。さしづに及ぶが、よう聞き分けて早く諭してくれ。さあ身上迫る/\。どういう事でもあろ。内に事情一つこれまで長い間、道すがら何でも彼でも思たる。長い道すがら、心にどうも一時の処未だ長い間、道筋未だ一時判然ならん、判然ならん。身上迫る/\、どういう事こういう事、何程思たて迫る、分かろまい/\。よう一つしっかり聞き分け。一時に迫ると思うな/\。長い道筋分かろまい。もう日々の処、何でも彼でもと思う。この理よう聞き分け。どう成ろうとこう成ろうと、一つ道さい成れば。これ聞き分け。どういう事も思い思い年限経ぁたる。よう/\所に一つ理を下ろし、一時とんと判然ならん。これではなあ思う心、一つ心取り直せ/\。取り直さにゃならん。何処も彼処も盛大々々、所々話聞く。めん/\一つどういうもので判然ならん/\。これ一つ早く取り直せ取り直せ。もう一代と思てはならん。一代と思たら頼り無い。何したんやらと思わにゃならん。これまで道の無い所道付け、所に理を治めるは容易ならん。この理は十分受け取ったる/\。さあ生まれ更わりの理、これを思い/\、末代の理は容易で残さらせん/\。一代と思たら頼り無い。なれど、末代というはなか/\の理。これ取り直せ。これより何でもと治めたら治まる。これまで少し/\間違いでは皆いずむ/\。さあ一代と思たら頼り無い。なれど、末代と思えば一つ。これだけ諭したら何か分かる。よう聞き分け。
【説明】
(1) 下村賢三郎氏 南紀大教会初代会長。 南紀の道の誕生は、とりわけきびしかった。その教会設立から、ほぼ七年経った後のおさしづである。 (2~5)毎日々々、何でもかでも、どう成ろうとこう成ろうと、この道を伝える所さえできればと思って通ってきた。いろいろのことも思い、ようやく名称の理を戴くことができたが、もう一つご守護を戴くことができない。これではつまらないと思う心を考え直せ。あっちもこっちも盛大なご守護をいただいているのに、うちの教会は、もう一つぱっとしないと思う心を考え直せ。人間は一代限りと思ったらたよりないし、何をしたのかと思わねばならない。未信の土地にお道の布教をし、名称の理を戴いたのは容易ではなかった。この理は十分受け取っている。人間は生まれ更わるということを考え、末代の理を残せた喜びを考えて、ご守護をいただけないと思う心を取り直すように。 \n\n (1) 下村賢三郎氏 南紀大教会初代会長。 (2) お道は一代と思ってはならない。一代と思ったら、これだけつくしたのに何をしたのやらと思うようになる。一代でつくした理は十分に受け取っている。人間は生まれ更わりしている。前生のどんないんねんを持ち越しているからわからない。このとこを、よく思案して心を取り直し、末代かけて信仰の道を通るようにせよ。
【摘要】
教会長はよふぼくの中のよふぼくとも言える。したがって、その心構えをおさしづの中にうかがうと、細かく拾っていくなら、数限りなく広がっていく可能性がある。そこで教会長及びその夫人にとって、とくに重要な心構えと思えるものを重複を避けて拾ってみた。  とは言っても力及ばず、重要なもので脱落しているものもあるかもしれない。その点はお許しいただきたい。  まず会長となる人は、どうでもこうでも真剣に神一条で通らせていただきますと、就任の日に心を定めることが大切である。しかも、その心を生涯変わらず持ち続けること。人間の心は非常に変わりやすく、すぐ自分勝手の心が出てくるものだから。  基本的な心構えとしては、人間思案を先に立てず、親神の思召しを先に立て、思召しに素直に従うこと。親という理を戴いて通れば、いつも同じ晴天、すべて順調に通らせていただくことができる。  そもそも国々所々にある教会名称の理は、「ぢば一つ同じ木」(明治21・7・26)であり、真実誠、天の理から出来上がっているのだから、絶対につぶれない。  しかも、定めた誠真実の精神一つによって、親神が心に乗って働き、たった一人で万人に向かう力を現わさせていただくことができる。同時に竜頭が狂ったら皆狂うので、日々うれしく勇んで通ることが肝心である。またどのようなことが起ころうとも、捨身で身に受ける”まないた”のような心になることも重要だ。それが、どれくらい不思議なたすけを受ける台になるか計りしれないのだから。  教会では特に、会長夫婦の心が一つになっていることが大切であり、また教会の姿は”なるほど天理教の人は違うなあ”というように治まった姿を見せることである。これによって天然自然に道は広がる。  役員、住込みなども会長の心に添って、皆が一手一つになることであり、会長の立場から言えば、皆に相談して事を進めること。  道が広まって行くと、皆を治めて行く台として講元が必要であるが、当然、人間的にできている人も、できていない人もいる。しかし理によってなるのだから心配不要。  かくて教会が盛大なご守護をいただいても、往還道で怪我をするから心して通ること。逆に他の教会と比較して自分の教会は、もう一つご守護をいただけない、などと悲観することは不要である。人間は一代限りでなく、しかも末代の名称の理を残せた喜びを考えるならば。  日々の心構えとしては、どんな中も大義大層の心を持たず、心に喜びを持って通らせていただくこと。次から次へと用事ができてくるだろうが、それだけ道が大きくなった証拠と思い、健康であるならこそ、どんな事情治めも楽々にできると感謝して通ること。その場合、道の飾り、心の飾り、理の飾りは必要だが、身の飾りは不要である。しかも年限かけて通るのが天然の道であり、急ぐことはいらない。どんな難しい所も危ない所も越さねばわからないし、通らねばならぬが、それはすべて万人をたすけ上げる台となる。また、なるほどとたんのうして通る道すがらが天然自然の理で、それは天の網を持って行くのも同じことになる。  なお、ぢばで勤めるのも、教会で勤めるのも同じ一つの理である。  信者、部内教会の修理肥は特に大切な実践のかどめで、むさくるしい中から、どんなきれいなものもできるのだから、阿呆らしいというな気持ちは持たないように。しかも理は一つなのだから、大きなこと、小さなことの別け隔ての心を持ってはいけない。  満足を与えることによって道を作るのだから、物の面では乏しくとも、心の面で十分満足を与えること。  世界一れつは皆兄弟、この心で治めることであり、修理肥を出すのは”ぢば一つ”なのだから、区域を限るような縄張り根性は出さぬことである。  教会長の道中にも身内が出直すという、忘れるに忘れられぬ痛手もあるであろうが、教祖のひながたを思い浮かべれば通れる。また、世間からどう言われるかわからないと心配するような気持ちは思い開き、この道は末代であるから、長い目で見て、どんな中も勇んで通らせていただくように。  人間は一代限りではない。しかも、成っても成らいでもという心は、末代の理に受け取るのだから、うれしいなあと常に勇んで通ることが大切である。 \n\n (1) 人間は、この世に今まで幾度となく、生まれ更わり出更わりして来ているもので、前生のいんねんを自覚することが大切である。 (2) 自分の身上にあらわされていることを見、あるいはまた世上の人々の姿を見て、前生のいんねんをさんげしたんのうの心を治めて通ることが大切である。 (3) この世に生まれかわってくるのも、親神の守護による、誰が誰の生まれ更わりであるかは親神のみが、すべてご存知である。お知らせいただいているところから、親戚または身近なところに生まれかわってくるものと悟らしていただくことができる。 (4) 人間は生まれ更わりによって、この世に永遠に生かしていただくことができる。ここに末代かけての信仰の有難さと喜びを味あわせていただくことができる。

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