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永尾よしゑ八木部内飯倉布教所へ事情運び方有之に付出張の願

さあ/\尋ねる事情/\、尋ねる事情という。一つ理という。さあ/\前々事情事情、あれこれ/\、だん/\それ/\伝えたる処/\、あちらにも一つ、こちらにも一つ、順序道という、理という。運び一つ、事情自由治まりある処、一つ道という。一つ治め方、この事順序治め方、余儀無く事情、心理を以て後というは、理でなくばならん。さあ/\治めて来い/\。どんな事も守護する。随いて歩くも同じ事。さあ許そ/\。心道という、この理、意味は含んである。深く理である。さあ許そ/\。
【説明】
(1) 飯倉布教所(現東京都港区東麻布にある)は、山辺布教所(山辺分教会の前身。現在天理市小脇町にある)所長村田栄次郎氏が明治二十七年東京布教に行ってついた道である。山辺はぢばに近かったので永尾よしゑ姉、また浪華初代の上田檜太郎氏に創設当初いろいろ世話いただいたという(山辺分教会長・村田勝彦氏談)。  明治二十九年八木支教会長岸本又次郎氏が出直したので横山与八氏が二代会長を継ぎ、村田栄次郎氏は補佐役となり八木へ引き上げたので、飯倉は栄次郎氏の次男辰蔵氏が受けつぎ布教し、明治三十年教会設置した。ところが辰蔵氏は、また山辺布教所長として山辺へ呼び戻された。飯倉の担任変更問題は、こうして、こののちも幾たびも起こった。飯倉は村田辰蔵初代のあと、明治三十二年十一月渡辺平兵衛氏が二代会長となった(「東京教区史・第二巻」参照)。 (2) 飯倉布教所の担任村田辰蔵は、このたび上級山辺分教会へ引揚げることになった。あちらもたてこちらもたててこそ道と言う。理というものである。今回の引揚げはやむを得ない事情であるが、あとあとは理で治めねばならない。さあ治めてこい。親神がついて歩くのと同様、どんなことも守護する。さあ許そう。心に道の精神を忘れず事に当たってもらいたい。
【摘要】
対内出張として ①本部より地方・分教会へ出張の場合 ②上級教会より地方・部内教会へ出張の場合 の二つがあり、①について前項で検討したので、②について考察した。  上級教会より地方・部内教会へ出張する場合、出張理由としていろいろの理由がある。  矢追氏が九州布教に出向く(二六・四・一九)場合のように、地方へ布教のため出張があり、清水氏が播州講社巡廻(二一・八・六)し、諸井氏が国々先々へ巡廻(二四・七・五)のため出向く場合のように、地方信者育成のための出張がある。また甲府支教会長事情に付、諸井氏が出張(二九・一二・六)し、北陸支教会治め方に付、平野氏が出張(三二・一〇・一二)したように、教会事情治めのため出張する場合がある。  このような種々の理由によって地方・部内教会へ出張するに当たって、出張員はどういう心がけで行くべきか、巡教員はどうあるべきか、についておさしづを検討すると、 (1) 取次人はをやの代理である。講元というのはこうのうの理を積んだ者をもって講元というのである。 (2) 親神は子供の陽気ぐらしを待ち望み、限りない親心にあふれている。取次人はこの親心を心として布教に、信者育成に、教会事情治めに出向いてもらいたい。 (3) おたすけに出向く際には、親神がついて歩くも同じことで、どんなことでも守護しよう。  以上は上級教会より部内教会への出張・巡回に当たっての心得であるが、これはあながち部内教会への巡教・出張にのみ言えるものではなく、すべての出張についても言えることである。  最後に、以上述べてきた対外出張・対内出張を通じて、全体の要約を述べると次のごとくになるかと思う。  本部より地方分教会へ出張する場合、また上級教会より部内教会へ出張する場合のいずれも、現在では「巡教」「修理巡教」という言葉を用いられているようであるが、おさしづでは出張・派出・巡廻・巡教という用語を用いている。ただし巡教という語を用いたのは少ない。  なお明治三十五年に十教区を置き、教区ごとに取締員を任命し管内監督に当たらせた。また明治三十七年に本部より地方分教会修理巡教のおさしづが出ている。この二つは本項「出張・巡教」を扱う場合に欠かせぬ重要な事情であると思う。しかし、この項では「全国に十教区を置く事の願」(三五・七・一三)および「十教区取締員の事情に就いては先々へ出張のお許し願」(三五・八・一〇)は、既出のため載せなかった。  対外出張・対内出張のすべてのおさしづに現れた親神の思召しは、次のごとく仰せられているようである。 (1) 人間は親神の懐住まいをしている。まず人間は親神の神意ー天の理を心に治めなければならない。 (2) 親神は「反対するも可愛い我が子」(二九・四・二一)という広大無辺な親心である。したがって、一方が立つだけでなく双方が立つよう、兄も育て弟も育てるよう(三五・五・一八)勤めてもらいたい。親心とは理に厳しい反面、情愛に厚い心であり真実誠の心である。 (3) 取次人はをやの代理である。一人たすけたら万人たすかるのである。おたすけ人には親神がついて歩くも同じことである。ついては取次人、おたすけ人は自ら心を澄みきらせ心を浚えることが肝心である。

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