おさしず検索
松村さく身上速やかならん故松村吉太郎より押して願
さあ/\尋ねる事情/\、一つには尋ねにゃ分かろうまい。前々尋ねる言葉に、善いと悪いという。親という、子という、親子一つの理、よう聞き分けくれにゃならん。同じ道がある。よう事情聞き取ってくれ。どういう事で元と言う。皆小首傾け膝に手を置いて思やんしてみよ。親という、痛み悩みありて一つ聞き、道ありて道、道無うて親と言わん。道あって親あって子という。世界中教会、世界成らん理は思わずに満足させば、満足から何処からでも理が返る。これ一つ悟ってくれ。身に掛かると、苦しみて勤めると、嬉しう勤めると、親を助け道を助け、めん/\言うまでも無く、堅う突う張って居ては、どうもならん。万事始め、程無う治まる。日々治まる。これよう聞き取ってくれ/\。
押して、分教会の事でありますや
さあ/\思てくれ。互い/\それ/\談じ合う。これも楽しむ。苦しむ道を始めんで。これよう聞き取ってくれ。
押して、分教会の事でかゝりますや、本部の用でありますや願
さあ/\教会どうやこうや、あれがそれ/\長い間の道に明らかなれど、向こうも明らか。楽しめば子の苦しみ無き、鮮やかなものである程に/\。
押して、大県の治め方でありますや願
さあ/\心にある。万事治め/\と思う道で、万事心に鮮やか、めん/\鮮やか。抑えてならん。親というたゞ一人、親を助ける心があるが理。理を思うそれ/\取り次ぐ処も万事それ/\。元々の理首を傾け思やんして、治め方の理によって栄える。理によって潰れる。よく聞き分け/\。
押して、分教会の事でありますや
さあ/\思てくれ。互い/\それ/\談じ合う。これも楽しむ。苦しむ道を始めんで。これよう聞き取ってくれ。
押して、分教会の事でかゝりますや、本部の用でありますや願
さあ/\教会どうやこうや、あれがそれ/\長い間の道に明らかなれど、向こうも明らか。楽しめば子の苦しみ無き、鮮やかなものである程に/\。
押して、大県の治め方でありますや願
さあ/\心にある。万事治め/\と思う道で、万事心に鮮やか、めん/\鮮やか。抑えてならん。親というたゞ一人、親を助ける心があるが理。理を思うそれ/\取り次ぐ処も万事それ/\。元々の理首を傾け思やんして、治め方の理によって栄える。理によって潰れる。よく聞き分け/\。
【説明】
(1) 松村さく姉 松村吉太郎氏(高安大教会初代会長)母堂。 大県支教会の分離は時々話題にのぼっていたが、明治三十二年十一月十五日さく姉の身上の障りから、神様のおさしづを仰いだところ図らずも分離のおさしづがあった(「高安大教会史・上巻」参照)。 大県は明治二十二年高安分教会設立の時、高安の中に部属しておった。しかし、もともとは全然系統が違うのであり、はじめから真恵講として独立して歩んできたのであり、一時の事情から高安に部属したが、いずれは本部直属となるべきものであった(高安友治著「天理教伝道史Ⅰ」参照)。 (2) 皆心にあることであるが、これは抑えてはならない。元来、親というのはぢばただ一つであって、この親をたすけるのが理である。この理を思うところに万事治まる道がある。この元々の理をしっかり思案して、その理によって治めるよう。
(1) 松村さく姉 松村吉太郎氏(高安大教会初代会長)母堂。 大県支教会の分離は時々話題にのぼっていたが、明治三十二年十一月十五日さく姉の身上の障りから、神様のおさしづを仰いだところ図らずも分離のおさしづがあった(「高安大教会史・上巻」参照)。 大県は明治二十二年高安分教会設立の時、高安の中に部属しておった。しかし、もともとは全然系統が違うのであり、はじめから真恵講として独立して歩んできたのであり、一時の事情から高安に部属したが、いずれは本部直属となるべきものであった(高安友治著「天理教伝道史Ⅰ」参照)。 (2) 皆心にあることであるが、これは抑えてはならない。元来、親というのはぢばただ一つであって、この親をたすけるのが理である。この理を思うところに万事治まる道がある。この元々の理をしっかり思案して、その理によって治めるよう。
【摘要】
現在、本部直属教会については「天理教協規規定」に、大教会ならびに本部が特に承認した分教会は直属教会とされ(教規第三十八条)、また大教会については部属教会数五十以上で、よふぼくのうち教人三百人以上を有するもの(一般教会規定第二条)と規定されている。 現在の教会の昇級分離は、上の規定に従い願い出によって本部から許されているわけであるが、おさしづをいただいた時代(明治四十年まで)は、親神の方から、その教会関係者の身上を通して昇級分離を促され、それを契機として願い出て許された場合と、教会の方から親神に昇級分離をお願いして許された場合とある。 明治四十年までに分離を許された教会は七ヶ所あるが(菅原村講は永神講から分離を願い出たがお許しなかった)、そのうち日本橋・湖東・甲賀・水口・大県は前者に属し、中和・島ヶ原は講社に属する。 が、元より分離についての心の治め方は、前者についても後者についても同様であって、以上八カ所(菅原村講も含む)について、おさしづから分離についての治め方の要点を求めれば、次のように考えられる。 (1)教会の昇級分離は、分かれるのであって離れてしまうのではない。この理さえ心に治まれば、いつまでも十分治まる。 (2)本部直属となる十分な教勢のないものを分離するのはいけない。分離を考えるよりも、元へのつくし運びを楽しみに通れ。 (3)教会は皆ぢば一つから許されたもので、部属の教会・信者も、その修理肥えはぢばからするのである。部属先々に花が咲き実がのるのは、元のぢばからの修理肥えがあるからである。 (4)この道はぢば一つから始められたものであって、分教会(直属教会)も支教会(部属教会)も元は一つである。 (5)したがって分教会も支教会も、その理は同じであって、分教会としての理の治め方も、支教会としての理の治め方も同じ一つの事情である。 (6)教会は皆分教会(本部直属)となる理があるのであって、名称の理を下ろした時から、この事情ははじめかけてある。 (7)分教会に昇級して、なおかつ分教会の部属のままにしておくということは許せない。分教会に昇級を許されたら本部直属としての他の分教会と同じ理がある。 (8)上級と部属が昇級分離事情について、お互いに気が合わんと言っているのは双方に人間心があり、めんめん勝手の心が出るから、うまくいかないのである。 (9)日が経ち月が経ってみたら、なるほどさしづ通りになったという日があるから、さしづ通りに治めよ。 (10)神の方からどうせこうせと言っても、皆の心が親神の心に添い、揃わなければならないから、よく談じ合いをして定めよ。 (11)どうでもこうでもという、みんなの寄った精神の理に昇級分離を許そう。一手一つが神の望みである。互いに心を寄せる頼もしい心の理が、末代の理となるのである。 (12)分離しても、これまでのお互いの道を忘れんよう、兄弟としての心をもって心をもって仲良く通ることが肝心である。
現在、本部直属教会については「天理教協規規定」に、大教会ならびに本部が特に承認した分教会は直属教会とされ(教規第三十八条)、また大教会については部属教会数五十以上で、よふぼくのうち教人三百人以上を有するもの(一般教会規定第二条)と規定されている。 現在の教会の昇級分離は、上の規定に従い願い出によって本部から許されているわけであるが、おさしづをいただいた時代(明治四十年まで)は、親神の方から、その教会関係者の身上を通して昇級分離を促され、それを契機として願い出て許された場合と、教会の方から親神に昇級分離をお願いして許された場合とある。 明治四十年までに分離を許された教会は七ヶ所あるが(菅原村講は永神講から分離を願い出たがお許しなかった)、そのうち日本橋・湖東・甲賀・水口・大県は前者に属し、中和・島ヶ原は講社に属する。 が、元より分離についての心の治め方は、前者についても後者についても同様であって、以上八カ所(菅原村講も含む)について、おさしづから分離についての治め方の要点を求めれば、次のように考えられる。 (1)教会の昇級分離は、分かれるのであって離れてしまうのではない。この理さえ心に治まれば、いつまでも十分治まる。 (2)本部直属となる十分な教勢のないものを分離するのはいけない。分離を考えるよりも、元へのつくし運びを楽しみに通れ。 (3)教会は皆ぢば一つから許されたもので、部属の教会・信者も、その修理肥えはぢばからするのである。部属先々に花が咲き実がのるのは、元のぢばからの修理肥えがあるからである。 (4)この道はぢば一つから始められたものであって、分教会(直属教会)も支教会(部属教会)も元は一つである。 (5)したがって分教会も支教会も、その理は同じであって、分教会としての理の治め方も、支教会としての理の治め方も同じ一つの事情である。 (6)教会は皆分教会(本部直属)となる理があるのであって、名称の理を下ろした時から、この事情ははじめかけてある。 (7)分教会に昇級して、なおかつ分教会の部属のままにしておくということは許せない。分教会に昇級を許されたら本部直属としての他の分教会と同じ理がある。 (8)上級と部属が昇級分離事情について、お互いに気が合わんと言っているのは双方に人間心があり、めんめん勝手の心が出るから、うまくいかないのである。 (9)日が経ち月が経ってみたら、なるほどさしづ通りになったという日があるから、さしづ通りに治めよ。 (10)神の方からどうせこうせと言っても、皆の心が親神の心に添い、揃わなければならないから、よく談じ合いをして定めよ。 (11)どうでもこうでもという、みんなの寄った精神の理に昇級分離を許そう。一手一つが神の望みである。互いに心を寄せる頼もしい心の理が、末代の理となるのである。 (12)分離しても、これまでのお互いの道を忘れんよう、兄弟としての心をもって心をもって仲良く通ることが肝心である。